日向大神宮
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   【延喜式神名帳】日向神社 山城国 宇治郡鎮座

   【現社名】日向大神宮
   【住所】京都市山科区日ノ岡町夷谷町28
       北緯35度0分24秒,東経135度47分43秒
   【祭神】内宮 天照大御神 多紀理姫命 市杵島姫 多岐都姫命。
       外宮 天津彦火瓊々杵尊 天之御中主神

   【例祭】外宮大祭 10月16日 内宮大祭 10月17日
   【社格】旧村社
   【由緒】顯宗天皇の勅願によって天照大神を高千穂の峰の神蹟より移し創建。
       天智天皇から神田の寄進あり。
       清和天皇の貞観年間、勅によつて社殿の改築が行われる。
       醍醐天皇(在位897-930)の時、官幣社に列
       建武の戦乱中、新田義貞は戦勝を祈つて良馬と大刀一口を寄進した。
       応仁の乱で焼失。
       近世にはすでに社殿等も失なわれ、わずかに古井が残り旧社地の跡を伝えるのみであった。
       江戸時代初期に再興。
       慶長年間徳川家康は崇敬厚く神領を復し社殿を改造した。

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座地に中絶後再建か。

   【祭祀対象】
   【祭祀】応仁の乱で消失、慶長年間に篤志家によって再建された。
   【公式HP】 日向大神宮
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】
   【境内図】 境内図



顕宗天皇創建と伝。疎水を渡った奥にあり。山中に忽然と現れた秀麗な社。小さな谷全体が社地となっている。
奈良時代、日向高千穂の峰の神を移したのが起こり、天智天皇が神田を寄進、神域の山を日ノ山と名付けた。建武の乱、応仁の乱で消失、慶長年間に篤志家によって再建された。方除け、開運、縁結びの神としてしられている。
一段高くなって最も奥に内宮
「宇治郡名勝誌」、「京都府山科町誌」は、延喜式神名帳小社に列する「山城国宇治郡 日向神社」とするが、「山城名勝誌」、「山城志」、伴信友の「神明帳考証」では別のものとしている。


朝日泉

境内の「朝日泉」は、平安時代、貞観年間(859-877)、都で疫病が流行した際に、「この宮地に湧きいづる清水の水をくんで万民に与えよ」との神告があったという。
第56代・清和天皇(在位858-876)の勅願により、菅原船津が水を振る舞うと疫病が治まった。以後、泉は「朝日泉」と名付けられ、京名泉の一つに数えられた。

社頭掲示板



日向大神宮

当神宮は、第23代顕宗天皇の御代に筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移して創建されたと伝えられています。
天智天皇は、圭田をご寄進され、鎮座の山を日御山と名づけ給い、清和天皇は、日向宮の勅額を賜い、醍醐天皇は、延喜の制で官幣社に列し給いました。
建武の戦乱中、新田義貞公は、戦勝を祈願され良馬と太刀一身を奉納されました。
応仁の乱の兵火で社殿並に古記録は焼失しましたが、松坂村の農、松井藤左衛門によって仮宮が造営され、禁中よりの修理料を賜り社殿の再興が行われました。
後陽成天皇は、内宮、外宮の御宸筆の額を賜いました。
慶長年間、徳川家康公より神領が加増され社殿の改造が行われました。
後水尾天皇・中宮東福門院は、修理料、御神宝を賜い、中御門天皇は、享保14年4月両本宮の修理に際し神祗官領卜部兼敬卿を奉幣の儀に遣わされました。
後桃園天皇は、たびたび御代拝を遣わされ、毎年御紋付提灯を賜いました。
寛政4年12月女院御所より御初穂奉献、同6年9月奉礼門院及び女院御所中宮より同年11月には内侍所よりそれぞれの御翠簾の御寄進があり、文化6年11月外宮御遷宮、同7年5月内宮御遷宮に際し、光格天皇は、御神宝を御寄進されました。
その他、仙洞御所、青蓮院宮、聖護院宮、梶井宮、桂宮の御参拝、御初穂の御奉献・宝物の御寄進があり、昭和4年10月御大礼調度品が下付され昭和11年10月九迩宮は御参拝・御初穂を御奉献、昭和12年2月御献木を賜いました。

公式HP



日向大神宮

日向大神宮は、清和天皇の勅願によって天照大神を粟田山に勧請したことに始まり、その後応仁の乱で焼亡したが、寛永年間(1624−44)に伊勢人野呂左衛門尉源宗光が再興したと伝える。
境内の最奥に南面して建つ内宮本殿は桁行正面1間、背面2間、梁行2間の神明造の建物である。両脇に棟持柱を建て、屋根の棟には内削ぎの千木と堅魚木8本をのせている。本殿の前万に建つ四脚門の御門の屋根にも内削ぎの千木と堅魚木6本がのり、両脇に板垣がとりついて内宮の敷地を区切つている。
内宮の前方ー段下がつたところに建つ外宮は、本殿・御門ともに内宮とほぼ同じ規模・形式をもつが、屋根の干木が外削ぎで堅魚木がそれぞれ1本少なくなる。
本殿はともに造営年代に関する資料を欠くが、社蔵文書や「拾遺都名所図会」(天明7年・1787刊)から18世紀末にはすでに建つていたことがわかり、部材が一部取り替えられているものの、市内では例の少ない神明造本殿として貴重である。また、御門と板垣で敷地を区画する社殿構成は古式を伝えている。
また、内宮・外宮のほか拝殿・社務所・摂社等一連の建造物が、敷地の高低差を利用して配されるこの神社の構成はみごとであり、周囲の山と一体となつて優れた境内環境を形成している。
内宮・外宮 京都市登録有形文化財
境内 文化財環境保全地区
昭和62年5月1日 指定
京都市

社頭掲示板



日向大神宮 御由緒

当神宮は第23代顕宗天皇の御代に筑紫日向の高千穂の峯の神跡を移して創建されたと伝えられています。天智天皇は、圭田を御寄進され、鎮座の山を日御山と名づけ給い、清和天皇は、日向宮の勅額を賜い、醍醐天皇は、延喜の制で官幣社に列し給いました。
建武の戦乱中、新田義貞公は、戦勝を祈願され良馬と太刀一扱を奉納されました。応仁の乱の兵火で社殿共に古記録は焼失しましたが、松坂村の農、松井藤左衛門によって仮宮が造営され、禁中より修理料を賜り社殿の再興が行われました。
後陽成天皇は、内宮・外宮の御宸筆の額を賜いました。
慶長年間、徳川家康公より神領が加増され社殿の改造が行われました。後水尾天皇・中宮東福門院は、修理料・御神宝を賜い、中御門天皇は、享保14年4月西本宮の修理に際し神祇官領卜部兼敬卿を奉幣の儀に遣わされました。
後桃園天皇は、たびたび御代拝を遣わされ、毎年御紋付提灯を賜いました。寛政4年12月女院御所より御初穂奉献、同6年9月泰礼門院及び女院御所中宮より同年11月には内侍所よりそれぞれ御■■の御寄進があり、文化6年11月外宮御遷宮、同7年5月内宮御遷宮に際し、光格天皇は、御神宝を御寄進されました。
その他、仙洞御所・青蓮門院・聖護院宮・梶井宮・桂宮の御参拝・御初穂の御奉献・宝物の御寄進があり、昭和4年10月御大礼調度品が下付され、昭和11年10月久邇宮は御参拝・御初穂を御奉献、昭和12年2月御献木を賜いました。

社頭掲示板



日向神社

日向は比牟加比と読り〇祭神饒速日命、(風土記)〇在所詳ならず○惣國風土記残欠云、日向明神、圭田三十五束三字田、所祭饒速日命也、天智3年奉圭田行祭事、有神家巫戸等、
名勝志云、土人云、佛國寺南有木幡峠、右方伏見城山、左方關東山云、其続有松林、云日向山、」山城志云、在西山村、称岩屋明神、」考証云、今云日野御室戸、」共に信用がたし、但し俚言に云、日向山いさゝか拠ありげ也、猶よく尋ぬべし、
類社
近江国犬上郡日向神社、大和国添上郡大和日向神社、(鍬靫)同国城上郡神坐日向神社、(大月次新嘗)

神社覈録



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