当社は仁徳天皇によって創祀。祭神・菟道稚郎子命の死を悼み、菟道山上に墓を造り墓の近くに社を作ったと伝えられている。宇治川の北岸に接して、平等院と相対している。 応神天皇の皇子・菟道稚郎子の宮居跡。 古くは離宮八幡宮 桐原日桁宮(きりはらひげたのみや)と称し、祭神は応神天皇の皇子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)とされている。 日本書紀仁徳天皇前紀に、先皇応神天皇が崩りましたとき、皇太子菟道雅郎子はたゞちに皇位に即き給はず、之を兄大鷦鷯尊に譲ろうとせられたが、尊が固辞せらるゝに及んで遂に自ら死せられた事蹟を述ベている。 後代菟道稚郎子を痛み、その墓に近く社を建ててその霊を祀つたのが当社であるといわれ、式に二座とあるのは菟道稚郎子の他に父応神天皇をも併せ祀つた故と考えられる。中古以來当杜が離宮八幡と呼ばれるようになつたのもそれ故のことと思われる。また当社とは別に古く宇治上神社のあることを考えると、当社はおのづから宇治下神社に当るものと考えられる。 流造りの本殿(重文)は鎌倉時代に建立されたものであるが、他にも木造狛犬や白色尉面など貴重な文化財が伝わっている。 離宮祭といわれる例祭は、古くは田楽などの芸能が催されていたとの記録も残っているが、現在は最終日の6月8日に大きな御輿(みこし)が市中を巡幸する。 明治維新までは、宇治上神社と二社一体でそれぞれ離宮上神社、離宮下神社と呼ばれていた。 |
宇治神社 御祭神事歴並略由緒 祭神、菟道稚郎子命 当社は仁徳天皇の創建にして往昔より離宮八幡宮という、史上所謂桐原日桁宮(きりはらひけたのみや)これなり、抑も祭神菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)は応神天皇の皇子にして、夙に経籍を習い、儒道を修め博くその理義に通じ給う、ことに聴明叡智に坐しましかば、天皇深く御鍾愛あり、長子を凌きて皇太子と定め給う、御父応神天皇御崩御の後、命は天位を皇兄大鷦鶺命(おおささきのみこと・仁徳天皇)に譲りて此処に住はせ給う、されど皇兄位を践み給わず、互に相譲りて帝位を空ふし給うこと三年、命皇兄の御心の奪うべからざるを知り給うや、死を以て節を全うし給えり、皇兄深く痛哭哀悼し給えど今は詮術なければ、遂に天位を襲い給う仁徳天皇すなわちこれなり。しかれば此の御即位譲りのことは百世の美徳として普く世人の知る所なり、ここに於いて天皇その宮居の地に祠を建てて、命の神例を鎮祭せしめ給う、これ当社の創立なり。 命は初め百済の貢士阿直岐(あちき)および王仁(わに)に就て学び薀奥を極め給う、実に我国文教の始祖にして、その事蹟は長へに彜倫を叙し汎く治教を張れるのみならず、国運の隆興も亦大に負うところ甚少なからざるべし。 当社は古来極位の官社にして、歴朝の崇敬武将の信仰は申すもさらなり、殊に後冷泉天皇の尊崇厚く、宇治関白頼通公も亦深く崇敬し、毎年例祭の砌り幣帛を進め神馬を獻したり、また社家政所総長者神事奉行所のありしと、古史社伝社記に詳かなり、中古兵乱等のため、太く衰微せるも今なお古礼の存するものあり。 明治30年皇太子殿下(大正天皇)本社に行啓ありて幣帛を供進せらる。 御神像および社殿は共に重要文化財なり、年中祭典行事の主なるものは、歳旦祭を初め祈年新嘗等の大祭、中祭、小祭、遥拝式の外に毎年10月1日献茶祭、5月8日例祭。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
宇治神社 御由緒 宇治橋の上流宇治川の右岸、この辺りは応神天皇の離宮(桐原日桁宮:きりはらひけたのみや)跡でもあり、皇子の菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)の宮居の跡と伝えられており、菟道稚郎子命の死後にその神霊を祀ったのが、この神社の始まりです。 応神天皇が菟道稚郎子命を皇嗣と定められ、命の御兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと 後の仁徳天皇)を太子の輔導にあてられた。これは、わが国の古代の慣例で、なるべく若い者に嗣がせた方が一代の活躍期間が長く、国の繁栄を期待する可能性が強いとされていたからである。 ところが、菟道稚郎子命は博士王仁(わに)から儒教の思想を受けておられ、長男相続説を守っておられたので、応神天皇崩御の310年に兄宮に皇位に即かれるようにと勧められた。しかし、大鷦鷯尊は日本的な思想の方で、互いに皇位の譲り合いが続いた。 菟道稚郎子命は御父天皇崩御の後、312年に宮居を菟道に移され、皇位を早く定めて天下の煩いを除くために自害せられ、兄宮に譲られたである。 御神徳 宇治の産土神(うぶすながみ)としての信仰は勿論のこと、幼い頃より聡明で、王仁などについて学問の道を極められ、我が国文教の始祖として、現在も学業・受験合格祈願などのお参りが多い。 重要文化財 本殿 国の重要文化財 本殿は国の重要文化財となっており、三間社流れ造り桧皮葺きの社殿で、鎌倉時代初期の建設であります。 殿内中央には平安中期の菟道稚郎子命の木造神像が安置してあります。 彩色木像「菟道稚郎子命坐像」 重要文化財 等身大の男神像で、衣冠、笏を持つ坐像俗体像。 木造狛犬 宇治市指定重要文化財・歴史資料館委託 鎌倉時代前期の阿形、吽形の一対で、檜材の一木造、彫眼、内刳はない。矧ぎつけ、口の周辺に植毛痕がある。阿形は上体を後方に反り、胴を立て気味の姿勢をとる。現存する木造狛犬最古の例という。それぞれ80.9cm、87.7cm。二体は別の作者によるものという。 白色尉面 宇治市指定重要文化財 安土・桃山時代作の有鬚面の白色尉面は、能面作者・喜兵衛(きひょうえ)作であり、面裏に「叶」の刻銘がある。「雪掻きの面」と呼ばれる。伝承があり、かつて雪の降った朝、境内の雪を掻いている際に現れたものという。以前は、翁舞「長者のたらり」の際に用いられていた。縦19cm、横15cm。檜材。当社は中世(鎌倉時代-室町時代)には、猿楽の拠点になっていた。 公式HP |
宇治神社 延喜式内社 宇治神社 御祭神 菟道稚郎子命(ウジノワキイラツコノミコト) 第15代応神天皇の皇子 御由緒 宇治橋の上流宇治川の右岸、この辺りは応神天皇の離宮(桐原日桁 キリハラヒケタノミヤ)跡でもあり、皇子の菟道稚郎子命の宮居の跡と伝えられている。応神天皇が稚郎子命を天位に任命するが稚郎子命は王仁(ワニ)博士から儒教の思想を学んでいたので兄の大鶴鷯命(オオサギノミコト 後の仁徳天皇)を差し置いて天位に就く事が儒教の思想(長子相続)と違ったため、稚郎子命は天位を兄の大鶴鷯命に譲りあいの後、死をもって節を全うした。後に、兄の仁徳天皇は稚郎子命の宮居に祠を建て神霊を祀ったのが、この神社の始まりである。 御神徳 宇治の氏神様 幼い頃より聡明にして阿直岐や王仁博士について学門の道を極められ、我が国最初の文教の始祖であり、学業や受験合格の神様として崇められている。 御本殿 鎌倉時代初期の建物で、三間社流造り(さんげんしゃながれづくり)桧皮葺き(ひわだぶき)で御神像と共に国の重要文化財に指定されている。 みかえり兎 御祭神「菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)」が河内の国から、この土地へ向かわれる途中、道に迷われてしまいました。その時、一羽のうさぎが現れ、振り返りながら、後を追う「菟道稚郎子命」を正しい道へと案内し、お助けしました。この御由来のうさぎを当神社では「みかえり兎」と呼び、人々の人生を道徳の正しい道へと導く神様の御使いとして伝わっております。また、宇治と言う地名は、この云われよりついた名前ともいわれています。 宇治神社 社頭掲示板 |
宇治神社と宇治上神社 宇治神社の創祀は 「古事記」中巻応神天皇、「日本書紀」巻第11仁徳天皇に 応神天皇崩御後の、菟道稚郎子命と大鷦鷯命【後の仁徳天皇】の3年間にわたる皇位継承について記されており、菟道稚郎子命がこの菟道(宇治)の地で自らの命を絶って、兄である大鷦鷯命に皇位を譲ったとある。これを悲しんだ大鷦鷯命が、この地に菟道稚郎子命の御神霊を祀ったことが当社の創祀であり、ご祭神が自害されたのが応神天皇崩御の3年後ということから、1700年以上の歴史がある。 その近くに、父である応神天皇の御神霊を祀り(現在の宇治上神社[明治19年に当社より分離独立])この二座を総じて「宇治神社」と称した。 このことは、延喜式巻第九(神紙九 神名上)に 宇治郡十座(座とは、神様を数える時に用いる語) 宇治神社二座、日向神社、許波多神社三座、 天穂日命神社、宇治彼方神社、山科神社二座 とあり、古事記・日本書記を参考にした当社の成り立ちから、一座は菟道稚郎子命と数え、もう一座を現在の宇治上神社の主祭神で父である応神天皇と数えるのが妥当である。このように、宇治の氏神としてこの地に祀られた1700年という歴史は、現存する歴史的史料からしても明らかである。 ◇良くある質問 ●両杜はどのような関係か? 宇治上神社が、明治19年に当社から分離独立し、名称と社格を戴かれ現在に至つているという経緯から、宇治神社の摂仕であったと考えられる。 宇治上神社に向かう道中に「宇治神社」の石柱が現仔していることが、この先も宇治神社の境内地であったという名残でしょう。 社頭掲示板 |
郷社 宇治神社 本社は、今朝日山(古名今来嶺)の麓に在り、仁徳天皇即位元年5月奉祀せる所にして、後世離宮八幡と號す、延喜式宇治神社二座とある是なり、本宮、若宮の二社に分つ、初め応神帝の時此に造営ありて、以て離宮と為し、皇太子之に居給ふ、而して皇位を仁徳帝に譲りたまはんとて薨去あり、後世之を悲しみ、其の応神帝を八幡神と称するを以て、之に配して若宮と號す(大日本地名辞書)即ち日本紀に、(「仁徳天皇巻)41年春2月誉田天皇崩、時皇太子兎道稚郎子譲位于大鷦鷯尊(中略)既而輿宮室於菟道而居之、(中略)乃且伏棺而薨、仍葬菟道山上」とあり、又神祇志料に宇治郡離宮明神、又宇治鎮守明神といふ(中古記百錬抄)今宇治馬場町にあり(山城志)後冷泉天皇治暦3年10月壬子神位一階を授く(参取百錬抄扶桑略記)」と見えたり、神名帳考証には「宇治神社二座伊香我色雄命、埴安神」と記せり、尚推古天皇27年聖化天皇と称し給ひ、宇治関白頼通深く崇敬せらる、往古大祭には唐櫃一合及神馬を献ぜらるゝ例なりき(社記)、扶桑略記に日ふ「治暦3年10月5日庚戌、天皇臨幸宇治平等院、奉授離宮明神位記、仁平3年4月8日、祭祀離宮明神、田樂為本、散樂為先、諸村競営風流」と、又中右記に「崇徳天皇長承2年5月壬戌、宇治土人等祭を修む、之を離宮祭といふ、競馬十番を行ふ、巫女馬長一物田樂散楽各其の徳を尽く、鼓笛甚だ喧しく、人の耳目を驚かせり」と記せり、明治6年6月郷社に列し、同10年6月延喜式内宇治神社に決定す、社殿は本殿、拝殿、前拝、神樂殿、休息所、絵馬含、手洗所、神庫等を具備し、境内1232坪(官有地第一種)あり。 明治神社志料 |
宇治神社 宇治神社 うじじんじや 京都府宇治市宇治町。 旧府社。菟道稚郎子命を祀る。宇治上神社と併せて離宮明神・離宮八幡・離宮両社などと呼ばれた。応神天皇の離宮があり、皇子菟道稚郎子が住まわれた跡で、仁徳天皇(皇子の兄)が創祀されたと伝承されている。宇治上神社を本宮・上社というのに対して本神社を若宮・下社とも呼ぶ。『延喜式』には「宇治神社二座」とあって両社の区別なし。二座の神名については菟道稚郎子命と仁徳天皇(大鷦鷯尊)。あるいは稚郎子と父応神天皇またば母の宮主矢河枝比売(宅媛)または忍熊皇子(応神天皇の兄)などの説がある。両神社の閃係は賀茂伸社(京都)にみる上・下社の関係(御祖神と子神)同様の祭祀が基礎にあって分離発展したとする説がある。この神社が離宮八幡と呼ばれるようになったのは、八幡神信仰が入ったからだとする。「中右記」の長承2年(1133)5月8日の条に「今日宇治鎮守明神離宮祭なり」とする離宮祭は藤原頼通が平等院鳳凰堂建立の時に奉幣し、競馬・田楽などをおこし、忠実も田楽散楽を興行させたとし、明治維新までは円満院が主掌した。祭日は5月8日(神幸)で6月8日(還幸)、6月6日に幣渡祭がある。特殊神事の「大幣神事」(泰平とも)として有名。 また本殿(三間社流造・檜皮葺)は鎌倉期、菟道稚郎子命坐像は平安後期の木造彩色(高さ85cm)で、ともに重文に指定されている。 神社辞典 |
宇治神社二座 鍬靫 宇治は郡名に同じ○祭神兎道稚郎子、(風土記一座は詳ならす)○今離宮末社、三室戸村二座是乎、(名勝志)○日本紀仁徳天皇巻云、41年2月、誉田天皇崩、時皇太子兎道稚郎子、譲位于大鷦鷯尊、既而興宮室於兎道而居之、乃且伏棺而薨、仍葬於兎道山上、」式廿一、(諸陵)宇治墓、兎道稚郎皇子、在山城國宇治郡、〇惚國風土記残欠云、宇治神社、圭田三十九束三字田、所祭兎道稚郎子也、推古3年乙卯5月、始奉圭田加神禮、有神家巫戸等、世称宇治八幡、山城志云、宇治馬場町、称離宮有上下二座、」連胤按るに、当社と離宮は別社なるべし、故に名勝志に從ふ、なほ式外離宮の條下考へ合すべし、 神社覈録 |