古く、真幡寸神社は深草の地(現藤森神社)にあったが、藤森神社(旧藤尾社)が旧社地(現伏見稲荷社鎮座地)から現在地に遷った時、その地にあった真幡寸社は西方・城南宮の地に遷されたという。 「東風友春ブログ」によると、藤森神社祭神は(中座)素盞鳴命・別雷命・日本武尊・応神天皇・仁徳天皇・神功皇后・武内宿禰(東座)舎人親王・天武天皇(西座)早良親王・伊豫親王・井上内親王 となっており、中座に祀られている「別雷命・神功皇后」が真幡寸神となるとしている。 |
由緒 藤森神社縁起略誌 菖蒲の節句発祥の地 勝運と学問の神社 京都洛南深草の里に、平安遷都以前より祀られている古社にて、古来、朝廷より庶民までの崇敬厚く、歴史ある社である。本殿は宮中賢所の建物を正徳2年(1712)に賜ったもので、現存する賢所としては最古のものである。その他重要文化財八幡宮社、大将軍社等の建造物がある。藤森祭は、毎年5月5日に行われているが、この祭は、菖蒲の節句発祥の祭として知られ、各家に飾られる武者人形には、藤森の神がやどると伝えられる。菖蒲は尚武に通じ尚武は勝負に通じるといわれ、勝運をよぶ神として信仰を集めている。日本書紀の編者であり、日本最初の学者である舎人親王を御祭神としてお祀りしてあり学問の神としての信仰が深い。本殿(中座)素盞鳴命、別雷命、日本武命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇(以上7柱)。東殿(東座)天武天皇、舎人親王(以上2柱)。西殿(西座)早良親王、伊豫親王、井上内親王(以上3柱)。本殿は、神功皇后摂政3年(203)纛旗鎮座地。神功皇后凱旋し給うた後山城の国深草の里藤森を神在の清地として選び給い纛旗(軍中の大旗)を樹て兵具を納め塚を造り弓矢蟇目の法を修して神祀りし給うたのが当神社の起りである。延暦13年桓武天皇より弓兵政所の宝称を授け遷都奉幣の儀式が行われた。東殿は、天平宝字3年(759)藤尾の地に鎮座。永亨10年(1438)藤森に合祀。淳仁天皇天平宝字3年深草の里藤尾の地に祀られ同時に舎人親王に対して崇道盡敬天皇と追贈した。藤尾の地は今の伏見稲荷の社地である。永亨10年後花園天皇の勅により時の将軍足利義教が山頂の稲荷の祠を藤尾の地に遷し藤尾大神を藤森に遷座し東殿に祀られ官幣の儀式が行われた。舎人親王は持統、文武、元明、元正、聖武の5朝の国政に参与され養老4年(720)には日本書紀を撰し又、弓矢蟇目の秘法を伝えられ文武両道にすぐれた御方であられたから皇室藤原一門の崇敬厚く貞観の年(860)清和天皇の宝祚を奉りて官幣の神事が行われた。これが深草祭(藤森祭)の初めである。西殿は延暦19年(800)塚本の地に鎮座、延応元年(1239)深草小天皇へ遷座、文明2年(1470)藤森へ合祀。早良親王は光仁天皇の第2皇子で天応元年(781)4月1日皇太子にたたれた。当時陸奥では伊治大領皆麿が謀反して朝命に服さず勢力をましてきたので親王は立太子と同時に征討将軍として直ちに軍勢を催し当神社に詣で戦勝を祈願され出陣しようとしたところこれを伝え聞いて忽ち畏怖して乱は平定した。このような英武の御方であられたが延暦4年(785)事に座して淡路に流される途中神去り給うた。延暦19年親王に崇道天皇と追號し塚本の地(東山区本町16丁目)に祀られた。不幸にしてなくなられた伊豫親王、井上内親王の御霊が鎮まらないので淳和天皇の天長3年(826)正月5日に勅して2柱の御魂を塚本の宮に合祀し官幣の御儀があった。西殿に祀られる3柱の神は斯く荒御魂神であられ朝廷の崇敬も厚かった。天喜3年(1055)9月27日隣地法成寺より火を失して塚本の宮も類焼し宮殿悉く烏有に帰したが、白河天皇勅して大納言能信奉行して承暦元年(1077)12月2日に再建せられた。建久3年(1192)後鳥羽天皇菅原故守をして官幣の儀があり。延応元年(1239)には藤原道家が塚本の宮を深草極楽寺南の地に遷して小天皇と称し祀った。その後応仁の乱に社殿悉く兵火にあったので小天皇の宮を藤森に遷して西殿に祀った。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
府社 藤森神社 本社創建に就ては、応仁の乱に社記焼失したれば詳ならざれども、始め素盞鳴命、日本武命、神功皇后、別雷神、応神天皇、武内宿禰を祭れり、其后称徳天皇の勅により崇道尽敬天皇を合祀す、淳和天皇の天長3年正月勅して崇道天皇を相殿に鎮め祭り、嵯峨天皇の弘仁7年官幣を奉る、後清和天皇の貞観年中勅あり、其の祭礼を深草祭と称す、崇道尽敬天皇御社は、今の稻荷社の地に鎮座ありて、初め、藤の尾と称せしが、天長年中藤森社に遷されたり、故に祭礼の際は稻荷社より神饌を供する例あり、古来朝家の崇敬厚く、修繕落成、正遷宮等には勅使参向の儀ありき、崇道天皇は早良親王なり、親王は天長元年夷狄来寇の際、征討軍に赴く途次当社に祈り、5月5日出陣す、神威に依り戦に勝つことを得たり、故に祭礼には神人氏子等甲冑を著し。兵器を携へて供奉し、以て行軍に擬する古格なり、是れぞ弓兵政所の起源にして、端午に男子が旗を飾り、甲冑の偶人を作りて祝ふこと蓋し此社の祭典より始まるといへり、又神功皇后三韓を征して凱旋し、御旗を納められし旧地にして、御鎧も今猶神庫に存す、国花萬葉紀に、「社領二百石、本社崇道天皇は早良親王也、勅を奉じて蒙古を征伐するの功あり、桓武天皇或は清和天皇の時崇道天皇と追號す、5月5日競馬會に社家甲冑を帯す、これ親王豪古を征伐し給ふ行粧となり、一説に日、早良親王光仁帝の子桓武の弟也、桓武帝親王を太子とし、政事を執行て、寵臣種継を殺すに依て親王を淡賂へながす、断食して路にて薨す、其霊崇をなすに依て祭て崇道天皇と謚す、是桓武帝の時上御霊に所祭八所の内也」と見ゆ、又「藤森の社は墨染の北にあり、本殿の中央は舎人親王、東は早良親王、西は伊豫親王を祭る、又本朝武功の神を配祀し奉る、神武天皇神功皇后日本武尊弐内宿根等なり、故に弓兵政所と号す、舎人親王は天武天皇の皇子にして、天平宝字年年に追尊あり、崇道尽敬皇帝と號す、養老年中に勅を受けて日本紀を撰し給へり。例祭は5月5日にして、産子の武具を著しで走馬する事は、光仁帝の御宇天応元年に異國の蒙古日本へ攻め来るよし聞えければ、天皇第二の皇子早良親王を大将軍として、退治あるべき由宣旨を賜る、親王当社に祈誓して5月5日に出障し給ふ、神威いちじるしく、忽ち暴風大に吹き来り、蒙古の軍船浪に漂ひ悉く亡び失せけり、此の吉例によりて毎歳軍陣の行粧をなし、天下平安の祈とし給ふ、当社を弓兵政所といふは此の謂によるともいふ、」(名所圏会)神社覈録に、「祭神舎人親王、紀伊郡藤森に在す」と記し、更に諸社根元記を引用して如上の記述の意を明にせり、朋治6年郷社に列し、同14年5月府社に昇格す、社澱は本殿、前拝、拝所、拝殿、社務所、神供所、絵馬所、神輿舎、神庫等を有し、境丙坪数は5373坪(官有地第一種)あり。 明治神社志料 |
藤森神社 祭神舎人親王○紀伊郡藤森に在す○諸社根元記云、謹勘旧記、当社三所天王者、神護景雲年中、山城國紀伊郡藤尾之霊地垂跡者也、人皇四十九代光仁天皇第二皇子早良親王、年來御崇敬異于他也、爰天応元年4月1日、超御兄山部親王立太子、今年異國蒙古責來之由有風聞、以立太子為大將軍可有退治之由有宣旨、依之立太子大軍勝利事被祈申当社、同年5月5日御出陣之処、大風吹而大海飜波浪、件蒙古不及一戦、悉以令滅却畢、以此因縁、毎年5月5日祭礼、神幸之時在地之神人等、鐙申冑帯弓箭列騎馬事、第一異國降伏之表示、第二天下泰平之瑞相、第三疫病消除之祈祷也、自爾以降、洛中洛外至辺土遠國、小男童児帯作太刀刀等、以菖蒲飾之、称菖蒲甲、是則当社祭禮供奉行粧也、依此等本縁、以当社被奉號弓兵政所者也、早良親王延暦24年御早世、兄山部親王即皇位、桓武天皇御事也、為被鎮申早良親王之御怨霊、有追號奉称崇道天皇、後日被贈正一位、7月15日於当社庭中燈大立松事、為崇道天皇法燈云々、又號為蒙古追善云々、両説古伝也、弘仁7年弘法大師、稻荷大明神為勅請、藤森天王敷地之内所望之由被達叡聞、被伺申当社神慮之処、可奉借之由依有神託、三山之麓勧請之、自爾以降、号彼所於稻荷矣、五十町四方依為天王敷地、近郷并京中自五條至九條、住民等悉以為当社氏子、稻荷社人等同前也、雖然於京中氏子者被寄稻荷之社、依之5月5日、神幸奉成京中者也、 神社覈録 |