真幡寸神社[城南宮境内摂社]
まはたきじんじゃ              . 所在地ボタン 社名ボタン

















   【延喜式神名帳】真幡寸神社二座 山城国 紀伊郡鎮座
          (旧地)真幡寸神社[旧跡]

   【現社名】真幡寸神社
   【住所】京都市伏見区中島宮ノ後町33-1
       北緯34度57分1秒,東経135度44分51秒
   【祭神】眞幡寸大神 品陀和氣尊
   【例祭】7月20日 
   【社格】旧府社
   【由緒】弘仁7年(816)7月山城國紀伊郡飛鳥田神とともに官社の例に預る『日本紀略』
   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地は下京区油小路名神ガード下る西側若宮八幡宮のある地
        平安末期に現在地へ

   【祭祀対象】
   【祭祀】真幡寸神社としての継承はされている。
   【公式HP】 城南宮
   【社殿】本殿
       


創祀の年紀は明らかではないが、早く弘仁7年(816)7月乙酉に山城國紀伊郡飛鳥田神とともに官社の例に預る旨『日本紀略』に見える。故地は現在下京区油小路名神ガード下る西側若宮八幡宮のある地点に当ると伝えられている。
いつ現在地(城南宮の森の中)へ移されたのか、その正確な年次は不詳、平安末期院政時代に入つて洛南一帯に離宮の造営や寺塔の建立が相つぎ、その景観が一変するに至つた時と思われる。
真幡寸神社の創建年代は不明であるが、平安遷都(794)以前より当地一帯を勢力下においていた秦忌寸氏(ハタイミキ)の氏神として祀られていたか。
鳥羽離宮が造営せられるに及んで、眞幡寸社はその社と混同されるようになり、明治維新後式内眞幡寸神社の古名に復して府社に列せられたが、大戦後ふたたび城南宮と改称し(昭和27年11月19日)、眞幡寸神社はその境内摂社として城南宮本社殿の東隣に一区を画して奉祀されることになつた。
代々社家鳥羽氏によつて奉仕されてきている。


由緒

城南宮のご鎮座は、上古、神功皇后(息長帯日売命)が、軍船にたて給う御旗八千矛神の御霊をつけて当地に納められたことによる。そしてその御旗の、日月星の御紋章が即ち当城南宮の三光の神紋の由来である。
桓武天皇延暦13年(西暦794)の平安京遷都にあたり、国常立尊を合祀し、以来都の南方に鎮まり国を守護り給う城南明神と仰がれるに至った。平安朝の末期白河上皇は、賀茂川流域の水郷の当地を選んで城南(鳥羽)離宮を造営し院政を執られたので、一時は都の如く賑わい、中でも秋の祭礼は行粧華麗に行われた。
更に、院や上皇は、熊野を初め物詣でにあたっての方除けのための御幸や精進所にあてられたことは、当宮の方除け信仰を平安の昔にみるものである。源平の時代を経、後鳥羽上皇が城南宮の流鏑馬に車寄せての鎌倉幕府追討の承久の変以来、鳳池荘観を極めた離宮の建築群も次第に衰退し、応仁の乱に至って全く荒廃してしまった。
しかし、城南祭と方除け信仰は後世に承け継がれた。江戸時代享保6年9月霊元上皇修学院御所御幸に際して、風雨の難無きよう7日間の御祈祷を仰せられ、文久元年皇女和宮様関東御下向の道中安泰の祈祷、文久3年4月孝明天皇石清水行幸の途中御休憩御拝あらせられて、菊花御紋章の吹散一旒(ふきちりりゅう)を下賜せられ、尓来正月5月19日恒例の御代拝が立てられるなど、皇室の崇敬旧に復すと共に、京洛畿内の衆庶の信仰次第に篤く、「城南離宮社」「方除けの城南宮」と親しまれた。
慶応4年3月明治天皇大阪御親征行幸の途次亦当宮拝殿に御駐輦親拝あらせられ、大正5年4月貞明皇后石清水行啓の際神苑に駐輿御休憩遊ばされ、近くは昭和55年3月浩宮様御学友と御入洛の折、御参拝、曲水の宴を御覧遊ばされた。
明治10年延喜式内真幡寸(まはたき)神社と公定されたが、昭和40年従来の社号「城南宮」に復している。神威愈々高く、普請、造作、転宅、旅行など方除けの神との信仰益々広く全国に行きわたり、家内安全、交通安全、安産、病気平癒と御祈祷の参詣者で終日賑わっている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




真幡寸神社

祭神 真幡寸大神、応神天皇
 『日本紀略』弘仁7年(816年)7月21日条に「真幡寸神、官社の列に預る」と、また『延喜式』の神名帳にも記され、霊験あらたかで朝廷からお供え物があったことが知られます。ご神紋が徳川家と同じ「三葉葵」であることから、江戸幕府より照会があり、由緒を奉行所に回答した文書が伝わります。真幡寸大神と応神天皇をお祀りし、竹田地区の氏子の信仰が厚く、石の社号標や石灯籠が寄進されています。

城南宮公式HP



府社 眞幡寸神

本社は其の創建至つて古く、令義解に真幡寸神社はハタ神なりとあり、仲哀天皇の御宇、神功皇后征韓の役、艦上に樹てたまひける御旗の威を潰さんことを恐れ、社を此処に建て、八千戈神、息長帯日売命の神霊に添へて齊ひたまひしにより、此號ありとそ、其後桓武天皇延暦13年平安奠都の際、国之常立命及び相殿二座の神霊を祭りて皇城の鎮護とし、神号を日本不易皇太神宮と称し、又平安城の南方に当るを以て城南神とも称せり、嵯峨天皇弘仁7年7月官社の列に預かり、醍醐天皇延喜の制式内に列し、真幡寸神社二座とある是れなり、神祇志料に「今中島村城南神森にあり、(神名帳考山城志)按山城志森の東北竹田村真幡寸辻あり、又東寺に蔵せる寺領の文書に、山域國紀伊郡拝師庄内に真幡寸里飛鳥里と記し云々」とあり、覈録に真幡寸は麻波多岐と訓べし、祭神別雷神ハタ神云々」と見え、山城志に「在。中島村城南神社東北有地名真幡寸辻属竹田村与竹田上島羽塔森及乙訓郡石倉村共預官祭月清集祈雨於城南神和歌日、民乃戸母神乃恵仁需布良志都之南宮居為志与理」日本後記に「弘仁7年7月山城國紀伊郡飛鳥田神真幡寸神預官社列、並鴨別雷神也」と見ゆ、白河天皇応徳3年鳥羽に離宮を造営せられ、寛治元年行幸ありて。天照大御神以下七座の神を合祀せらる、二條天皇永暦元年9月上皇馬場殿に入御、当社の祭礼を御覧ぜらる、因って鳥羽城南神とも、鳥羽離宮又は城南離宮とも呼称せり、即ち神紙志料に、「紀伊郡、城南神、今下鳥羽村にあり(山城名勝志神社啓蒙)醍醐天皇延長3年8月丁卯城南寺祭に幸し給ふ、二条天皇永暦元年9月甲午祭を行ふ、此日上皇之に幸し給ひき此後城南寺祭大に著る云々」と見ゆ、孝明天皇文久3年石清水行幸の際御参拝あり、其れより恒例として一年三回及び臨時の御代参御祈祷ありて、神事の際には献品ありき、明治3年正月、神祇官裁を経て城南離宮皇神と称し、尋いで明治6年郷社に列し、同10年6月式内真幡寸神社に公定、同14年5月府社に昇格す社殿の主なるものは本殿、前拝所、拝殿、神樂舎、神輿舎、詰所、絵馬舎等にして、境内坪救は4207坪(官有第一種)あり。

明治神社志料



眞幡寸神社二座

真幡寸は麻波多岐と訓べし○祭神別雷神■神○中島村城南森に在す、(山城志、」同志云、城南神社東北、有地名真幡寸辻、厨竹田村、」名勝志云、安樂■院荘園内、山州眞幡木、芹川、上三栖、已上見文明天文綸旨等)○令集解云、眞幡寸神社、加茂別雷神之■神也、
官社
日本紀略、弘仁7年7月乙酉、山城國紀伊郡眞幡寸神、預官社例、鴨別雷神之別也、
前件二社の事を、考証云、飛鳥田者御祖神之別也、真幡寸者別雷神之別也、」こは何の書に拠て云るか、恐らくは鴨別雷神之別とあるを、鴨は御祖神ならんと思へる強言なるべし、古は賀茂も鴨も通はして書る事明かなるをや、」伴信友云、風土記に、建角身命随山代川下坐、葛野川與加茂河所会至坐云々、とある賀茂川の下の東にありて、主殿村と川を隔て斜に相向へり、因ありて此わたりに祭れるなるべしと云るは、然る事ならん、

神社覈録



山城国INDEXへ        TOPページへ