東福寺の側には近世まで塚本社という小社があった。この塚本社を「柿本社」に推定する説がある。 塚本社は、明治10年(1877)に祠が廃され、跡地の土塚は大正13年(1924)に陵墓参考地に指定された。 藤森神社では、藤森社本殿西座はこの塚本社が遷座したものだと伝えている。 承久3年(1221)に順徳天皇は懐成親王(仲恭天皇)に譲位し、鳥羽上皇の挙兵に協力したのが承久の乱。乱は鎌倉幕府によりたちまち平定され、後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された戦後処理が行われた。この処理の中で2歳で即位した仲恭天皇はわずか81日間(5月13日〜7月29日)と歴代天皇の在位期間の中でも最短で廃位されただけでなく、その即位すら認められずに摂政九條道家に渡御、天福2年(1234)、17歳で崩御された。そのため諡号・追号がつけられず、九条廃帝、半帝、後廃帝と呼ばれていた。 明治3年(1870)に天皇として認められ、仲恭天皇と追号されたが、このような経緯のため葬られた場所も不明であった。 この地が仲恭天皇の陵墓との伝承があり、大正13年(1924)に陵墓参考地に指定された。 |