桂川の東岸、落水高校西、国道沿い。平地。工場のとなりで騒音うるさい。 延喜式諸本に「一名柿本社」とあるその柿本の名を所在の地名(旧小字名今町名)として伝えているので、最も式内たることの可能性が強い。 もと村社で明治10年6月京都府から式内社たる認定を受けている。 孝徳天皇白雉4年(653)天皇貴布禰賀茂両神の神託によって横大路に宮を造り、別雷命を勧請し、翌5年4月20日齋主卜部倉見をして奉幣せしめられたのを以つて當社の起源とすると云い伝えている。 この地に飛鳥田神社があったのは確実であるがその継承社がいずれなのかは決めがたい。 |
飛鳥田神社 京都市登録有形文化財 飛鳥田神社は別雷・市杵島姫命を祭神とし、創建については確かなことはわからないものの、「日本紀略」には飛鳥田神社についての記載がみられる。ただし、式内社飛鳥田神社が当社であるかどうかについては明確ではないが、「延喜式神名帳」に「一名柿本社」とあることから、柿ノ本町に建つ当社が式内社である可能性は十分に考えられる。 中世以降の状況については、享保19年(1734)の「山城志」に記された上梁文からうかがうことができ、これによると応永25年(1418)に社殿が造営され、その後文明9年(1477)・天正4年(1576)・慶長19年(1614)に修理、また文禄5年(1596)に屋根葺き替えが行われていたようである。さらに17世紀半ば頃には境内の整備が進められたものと推定され、境内正面の鳥居に「慶安五壬申年/島写弁才天御宝前」、また手水鉢には「島写弁才天/御宝前/明暦三年/五月日」の刻銘が見られる。 覆屋のなかに建つ本殿は大型の一間社流造りの建物で建築年代に関する史料を欠くものの、全体に木割が太くて装飾が少ない点、また蛙股や実肘木・虹梁の形状などから、境内の整備が行われた17世紀半ば頃までに造営されたのものと考えられる。一部改変を受けているものの当所の姿を著しく損なうものではなく、また柱頭に舟肘木を落としこんで柱が直接桁を支持するという特異な手法が採用されている点に特色がみられる。 平成7年3月30日指定 京都市 社頭掲示板 |
飛鳥田神社 飛鳥田神社はもともと嶋瀉神社と称していた。享保年間(1716-1736)に京都の儒学者並河誠所が地誌編集のために近畿一円を巡見したことがあり、その時に誠所が嶋瀉神社の号は本来は柿本神社であると主張した。その後、横大路村氏子と神主小畠主税との間に社地の範囲をめぐって相論がまきおこり、その時、氏子側が勝手に神鏡の裏に柿本神社という神号をきざんでいたことが発覚し、監督者である京都の吉田家をまきこんだ紛争に発展した。 京都の歴史16 伏見区 |
飛鳥田神社 一名柿本社 飛鳥佃は阿須加陀と訓べし○祭神別雷神裔神○横大路村に在す、今島潟弁財天と称す、(山城志云、在横大路村南、其東曰柿内、)○分書に一名柿本社とあるは、後人の加筆なるべし、 考証云、今云明日荷田社、在稻荷上社傍、地主神、八坂寺文書去、柿本里自大和大路西、」名勝志云、今東幅寺中門北東側有小社、土人曰塚本社、疑柿本社歟、連胤按るに、考証は明日荷田の訓の同じきを拠とし、名勝志は柿本里自大和大路西とあるを証としたる説なれど、共に信がたし、」永久元年12月諸陵田坪村に、後深草陵墓田四至内云々、飛鳥田里云々と見えたるや此辺ならん、横大路の名は、名跡志に此所無古秀吉公代此堤ヲ築テ、北ハ鳥羽南ハ淀ニ至ラシム、其レヨリ皆人家ヲ堤ノ上左右ニ移ス也、古ヘニハ東方今田畠ノ地ニシテ、中ニ往還ノ道アリ、號横大路、伏見ノ城ヨリ当西、此路摂津國河内等ヨリ到都街道ナル謂ナリ、とあれば横大路の名は、唯道路をいふが終に村名となりし成べし、」今は当社上梁文に、飛鳥田大明神造修、応泳25年9月15日、別当伴清貞、神主清広、下司藤原光政云々とあるに從ふ、 類社 美濃國各務郡飛鳥田神社 官社 日本紀略、弘仁7年7月乙酉、山城國紀伊郡飛鳥田神、預官社例、鴨別雷神之別也、 神社覈録 |