伏見の旧森村にあった住吉神社を大椋神社に比定する説がある。 現在伏見奉行所跡とされている場所に住吉神社があり、この住吉神社を大椋神社に比定する説がある。 住吉神社は文禄3年(1594)に社を御香宮に遷した。その後も住吉の小祠が祀られていたが廃絶となった。 |
伏見奉行所跡 伏見は、江戸時代、幕府の直轄領だった。宿場町としても規模が非常に大きく、宇治川・淀川と高瀬川とを中継する川港としても大いににぎわった。 伏見城を廃した幕府は、この地に伏見奉行所を置き、伏見町及び伏見廻り八か村と葭島新田を治めた。その範囲は、ここ西奉行町・東奉行町から南は桃陵中学校にいたる広大なもので、正門は西側にあった。正門の南北には石垣の上に自壁が続き、南北二つの櫓がそびえていたと伝わる。 伏見奉行は、伏見町の司法。行政だけでなく、川船の監督、管轄する農村からの年貢徴収なども担当した。そのため、江戸募府の遠国奉行としては上席に位置し、旗本よりも大名が任じられることが多かった。慶応3年(1867)6月に26代奉行の林忠交(請西藩主、千葉県の大名)が病死した後は空席となり、職務は京都町奉行が管轄した。 慶応4年(明治元年)(1868)正月3・4日の鳥羽伏見の戦いでは、会津兵や新撰組ら旧幕府側がここを本陣とした。しかし御香宮神杜に陣を布いた薩摩兵から砲火を浴びせられ、焼失した。 維新後は、明治4年(1871)に親兵(後の近衛兵)が配備され、次いで工兵第十六大隊が置かれた。 京都市 社頭掲示板 |