岩神神社
いわがみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】大柴神社 山城国 愛宕郡鎮座

   【現社名】岩神神社
   【住所】京都市上京区浄福寺通上立売大黒町
       北緯35度01分57秒,東経135度44分45秒
   【祭神】
   【例祭】
   【社格】
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】
       拝殿

   【境内社】

ご神体は、高さ1.7m、幅1.5mの赤みを帯びた巨石。もとは二条堀川辺りにあったといい、中和門院(後水尾天皇女御)の御所に遷した。だが、怪異が起き、真言僧が当地に移し、岩神寺の本尊として祀ったという。
大正年間織物業の千切屋が敷地内に祠に石を祀り、岩上神社(岩上祠(いわがみし)とした。
志賀剛氏は、『神社覈録』が一例としてあげた芝藥師に注目し、これを大柴神社の神宮寺と考え、芝藥師のあつた芝藥師町の西500m上方の大黒町にある岩神神社を式内の大柴神社にあてられた。



岩神神社

この地には江戸時代に、山号を有乳山という岩神寺という寺院があり、乳の出が良くなるという授乳の神として、特に乳母や保母等に深く信仰されていたということです。その後、享保十五年(1730)の大火「西陣焼け」、天明八年(1788)の「天明の大火」で類焼した後に岩神寺は衰退して、明治になって廃寺となり、この石だけが残されていたということです。
その跡地は、岩上座という芝居小屋になりましたが、それでもこの巨石は地元住民から「岩神」として崇められていたようで、大正六年(1917)に岩上座の跡地を所有した織物会社が祠を建てて神社として岩神を祀って神事を行うようになったということです。そして、その建物が取り壊された後、現在のように整備され道路からも御神体が見られるようになりました。
少し時代を遡りますが、元々、岩神は二条堀川付近(二条城の南 二条通猪熊)の冷泉院の鎮守社にあったといわれ、慶長七年(1602)の徳川家康による二条城築城の際に、岩上通六角下る(中京区岩上町・・現在は中山神社があります)へ運ばれたとも、或いは、寛永年間(1624〜43)に岩上通六角へ神社を遷座する際、この大石だけは大きすぎて引く事が出来ないために、旧地に残したとも伝わります。ともかくその後、形の良い石ということで、後水尾天皇の女御中和門院の御所の庭へと移されました。
ところが、御所内に安置された岩神は、内裏の築山に引こうとしたら吠えたとか、小僧に化けて神泉苑で怪をなしたとか様々な怪異を起こしたと伝えられ、子供に化けたこともあったようで「禿童(かぶろ)石」とも呼ばれました。変身パフォーマンスを繰り返す元気いっぱいの岩神に、御所もあきれ果てたのか疲れ果てたのでしょう・・・.その後、御所の北門の辺りに置きっぱなしにしていたようです。
寛永七年(1630)、雲乗院(蓮乗院とも)という御所でしばしば祈祷を行っていた真言宗の僧が大石が置かれているのを見つけて、御所からもらい受け現在地に安置して祠を建てて祀ったのが、岩上神社(=神宮寺として岩神寺)の始まりといわれます。

http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/53996322.html



岩神神社

伝えによれば、二条堀川付近にあった霊石が六角通(岩上通六角辺り)に遷され、更に中和門院(後陽成天皇の女御の一人で、後水尾天皇の母)の屋敷の池の畔に遷されると奇異な現象が起きたという。吠え出したり、すすり泣いたり、子供に化けたり、の類である。子供に化けたという伝説に因んで「禿童石」(かもんいし)と呼ばれたこともあったという。
持て余した女官たちが遂にたまりかねて蓬莱院という真言宗の僧を召したところ、彼はその岩を貰い受け、現在地に移して祀ったという。その際に「有乳山(うにゅうざん)岩上寺」と称した。以降、授乳、子育ての信仰を集め、地元では「岩上さん」と親しみを込めて呼ばれている。
寺は亨保15年(1730)の大火事「西陣焼け」で焼かれ、天明8年(1788)の「天明の大火」では荒廃の極みに達した。
明治維新の際には廃寺となったが、大正年間に織物業の千切屋が敷地内に祠を構え、以降「岩上神社(岩上祠<いわがみし>)となって今に至る。数奇な運命を経た霊石だけは昔の姿そのままで現在に伝わる。
京都市

社頭掲示板



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