『特選神名牒』は社名を「カモノカハヒニマヌヲコソヤケノ神社」と訓んでいる。 文徳実録の天安2年(858)8月丁未條に「在山城國從五位下鴨川合神預名神」とみえるのが史料上の初見である。 この神社はもと鴨県主の宗家泉亭氏の邸宅内に建立せられた神社ではなかつたかということも考えられる。当社も最初は現在の吉田の泉殿即ち京都大学の西南西の位置の付近に、泉邸氏の邸宅が存し、その邸内に鎮座していたのが、高野川の河床の変遷の結果、現在の所に移つたのでないかと思われる。 賀茂川と高野川の合流点に祀られた神であり、この点については往古より変りないが、高野川の川筋に変動があつたとすると、合流点の移動に伴い鎭座地もまた移動したことが考えられる。 河合社は鴨川合坐小社宅(おこそべ)神社といふ正式の社名が示すように元は小社であつたが、名神の例に加わり月次・相嘗・新嘗の祭に預るなど朝廷から重視されたため、次第に大きく造り替えられていつたようである。 方丈記の鴨長明のゆかりの神社でもある。鴨長明が、父祖の職である河合社の禰宜を望んだが競望者があつたため勅許がなく、世を棄て出家した話は有名である。 只洲社とも記す。秦氏の奉祀する神社であったと言う。鴨氏が秦氏の婿となり、祭祀権を譲られたという。糺の森は秦氏の河合神社の森であった。 「女性守護 日本第一美麗神」と称している。女性が美しくなりたいという美容に関しての願望や、安産・育児・縁結びなど、女性ならではの願いごとを叶えてくださると伝。 式内須波神社は、河合神社本殿前の西側に東面して建つ一間半社 相殿流造の社殿(六社相殿)の一番北最も本社寄りに祀られている諏訪社を比定することが多いが、河合神社を比定する説もある。 平安期の太政官符には「河合社、是御祖、別雷 両神の描裔神 也」とあり、上賀茂神社・下鴨神社の祭神がともに祀られていたという記録もあるとされている。そのため、元来はここが賀茂神社の元宮であったという説もある。 |
河合神社 祭神 玉依姫命 祭神は 神武天皇の御母神 例祭日 11月15日 神徳 神武天皇とともに御母神として日本建国に貢献された内助のご功績は、日本婦人の鑑とも仰がれており、安産、育児、縁むすび、学業、延命長寿の守護神として広く知られている。 由緒 鎮座の年代は不詳であるが神武天皇の時代からあまり遠くない時代と伝えられている。「延喜式」に「鴨河合坐小社宅神社」とある。「鴨河合」とは、古代からこの神社の鎮座地を云い、「小社宅」(こそべ)は「日本書紀」に「社戸」と訓まれ、それは本宮の祭神と同系流の神々との意味である。 延喜元年(901)12月28日の官符には「河合社、是御祖、別雷神の苗裔也」ともある。 天安2年(858)名神大社に列し、寛仁元年(1017)神階正二位。元暦二年(1185)正一位。明治10年(1887)賀茂御祖神社第一摂社に列せられた。 社殿 本宮の21年目ごとに行われた式年遷宮の度ごとにこの神社もすべての社殿が造替されていたが、現在の社殿は延宝7年度(1679)式年遷宮により造替された古殿を修理建造したもので、平安時代の書院造りの形式をよくとどめている。 例祭日 貴船社 6月1日 本宮摂社 高お神 任部社 11月15日 河合社末社 八咫烏神 六社 11月15日 〃 諏訪神他五神 三井社 9月9日 〃 賀茂建角命他2神 河合神社と鴨長明 「ゆく河の流れはたえずして しかも、もとの水にあらず」という冒頭の文で始まる方丈記は多くの人々に親しまれている。作者鴨長明は、本宮禰宜の家系であった。幼少より和歌にすぐれ、後鳥羽院に見いだされ御和歌所の寄人となり、宮廷歌人として活躍したことで知られている。 石川や瀬見の小川の清ければ、月も流れをたずねてぞすむ 長明 社頭掲示板 |
糺すの森 この地は、賀茂川と高野川が合流する三角州であり、河合(かあい)と呼ばれた。また、三角州の只洲(ただす)から只洲社とも呼ばれた。「直澄」(ただす)の字も当てられる。また、神が顕れる地、(顕、たつ、ただす)、偽りを糺す神の御座する地、植物の蓼(たで)巣、群生地との説もある。 社の北には、鎌倉時代、第88代・嵯峨天皇の勅願寺として建立された鴨社の神宮寺跡、新糺池の跡がある。一帯は景勝地として知られており、「鴨の七瀬」として、鴨川、宮川(楢の川)、羽川(高野川)、瀬見の川、月輪川、御手洗川、泉河の名が挙げられている。(『烏邑縣纂書』) 社頭掲示板 |
重要文化財申請社殿
六社【むつのやしろ】[北方より] 諏訪社 御祭神 建御方神【たけみなかたのかみ】 衢社【みちしゃ】 御祭神 八衢毘古神【はちまたひこのかみ】、八衢比賣神【やちまたひめのかみ】 稲荷社【いなりしゃ】 御祭神 宇迦之御魂神【うかのみたまのかみ】 竈神【かまどのかみ】 御祭神 奥津日子神【おくつひこのかみ】 奥津比賣神【おくつひめのかみ】 印社【いんしゃ】 御祭神 霊璽【れいじ】 由木社【ゆうきしゃ】 御祭神 少彦名神【すくなひこなのかみ】 第八回、建仁元年(1201)12月10日新年遷宮のために描かれたとみられる「鴨社古図」によると、河合神社の御垣内にそれぞれ別々にまつられていた。江戸時代の式年遷宮のとき各社が一棟となった。いずれも、衣食住の守護神である。 社頭掲示板 |
鏡絵馬 鏡絵馬 〜かがみのえま〜 河合神社の御祭神 玉依媛命さまは神武天皇さまの御母神にましまして、古くより女性守護の神さまとして敬われ、玉の如く美しいそのお姿からは美麗の神とも仰がれてまいりました。 日本古来の柄鏡に形を似せました鏡絵馬にご自身で御化粧をほどこし、外面的な美しさばかりでなく、内面的にも美しい真の日本女性となれますようにとお祈り下さい。 賀茂御祖神社社務所 鏡 朝ごとに向かう鏡のくもりなく あらまほしきは心なりけり 昭憲皇太后御歌(明治天皇皇后) 鏡絵馬の書きかた 表面 絵馬に描かれた顔を御自身の顔に見立て、美しい女性になりますようにと願いを込めて御自身の化粧品等でお化粧して頂き、美しいお顔にしてあげて下さい。化粧品をお持ちでない方には、クレヨンや色鉛筆をお貸し致します。 社頭掲示板 |
鴨 長明 久寿2年(1155)下鴨神社禰宜長継の次男として泉の館(現在の京都大学北方一帯)において生まれた。応保元年(1161)7歳のとき下鴨神社の第六回遷宮が行われ、長明も神職の道につき、従五位下に叙せられた。幼少から学問に秀で特に歌道に優れていた。安元元年(1175)二十一歳、高松女院歌合わせに和歌を献じて注目を集めた。治承四年(1180)六月、26歳のときには、福原へ都が遷され、宮中に奉仕する長明も新都に赴いたが、八月源の頼朝の反乱により平家は滅亡し、再び平安京に遷都され帰洛した。 正治2年(1200)46歳のとき、後鳥羽院から召されて院の歌会や催しに和歌を献じることになった。翌建仁元年(1201)和歌所の寄人に任ぜられた。また琵琶や笛、琴にもたけた演奏の記録が随所にみえる。 しかし、元久元年(1204)50歳の春、宮中の席を辞して出家し、洛北大原に隠とんする。元久2年3月「新古今和歌集」に 石川や 瀬見の小川の清ければ 月も流れを たずねてやすむ をはじめ十首が採録された。「瀬見の小川」とは、この河合神社の東を今も流れる川のことである。建暦2年(1212)3月「方丈記」についで「無名抄」を著した。建保4年(1216)閏6月8日、62歳で没した。 長明の方丈 鴨長明は、50歳のとき、すべての公職から身をひき大原に隠とんした。 その後、世の無常と人生のはかなさを随筆として著したのが「方丈記」である。大原からほうぼう転々として、承元二年(1208)五十八歳のころ(現在京都市伏見区日野町)に落ち着いた。各地を移動しているあいだに「栖(すみか)」として仕上げたのが、この方丈である。移動に便利なようにすべて組立式となっている。広さは一丈(約三メ−トル)四方、約2.73坪、畳、約五畳半程度、間口、奥行きとも一丈四方というところから「方丈」の名がある。さらにもう一つの特徴は、土台上のものが置かれ、その上に柱が立てられていることである。 下鴨神社の本殿もまた、土居桁の構造である。この構造は建物の移動ということを念頭に柱が構築されるからである。下鴨神社は式年遷宮により二十一年ごとに社殿が造替される自在な建築様式にヒントを得たものといわれている。 社頭掲示板 |
鴨川合坐小社宅神社 名神大月次相嘗新嘗 鴨は賀茂と同訓也、」川合は加波比と読り、小社宅は哀古曽夜氣と訓べし、○祭神御祖別雷両神苗裔神(年中行事秘抄)○御祖社南に在す(山城志)○式二、(四時祭下)相嘗祭神七十一座、鴨川合社一座、」同三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、山城国鴨川合神社一座、 連胤按るに、小社宅神社は小社氏の宅神にて、ヲコソノヤカカミと訓にやあらん、考ふべし、さはいへ姓氏録に見えず、氏人も考へ得ねばいぶかし、 大社 年中行事秘抄云、天安2年8月7日預大社、 神位 名神 文徳実録、天安2年8月丁未、在山城国從五位上(上当作下)鴨川合神預名神、三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城国從五位下鴨川合神從五位上、同4年11月25日己丑、授山城國従五位上鵬川合坐小祖宅神(祖当作社)正五位下、百練抄、寛仁元年12月朔旧乙丑、授河合神正二位、依行幸之賞也、(野府記、寛仁元年11月25日已未、幸賀茂、12月3日丁卯、河合片間貴布禰被奉増正二位、社司注進本位従二位、仍所被奉増位、昨日御位記、 修埋 焼亡 中右記、天永3年10月29日、河合社廻廊等焼了、11月7日、行軒廊御卜、川合社欲被修造之処往古之寸法與今度増寸注何吉哉、霊官寮卜申者、又件旨被下本社解也、往古件社幣殿中門狭少也、而前社司季長時作成広大葺檜皮之間、季長卒去、又巳焼亡、仍過差之條神慮不叶歟、又以狭少寸法被作者有恐、可随勅定之由進社解也、仍有此御ト也、 神社覈録 |