本宮は高おかみ神、奥宮は闇おかみ神が祀られているとも伝えられているが、社記には「呼び名は違っても同じ神なり」と記されている。 本宮より500m上流に鎮座。古社中の古社といわれ、創建年代は不詳。 伝説によると第18代の反正天皇の時代に創建といわれている。 浪花の津(大阪湾)に黄色い船に乗った女の神様が現れ、「われは玉依姫なり、この船の留まるところに社殿を建てて、そこの神様を大事にお祀りすれば国土を潤し、庶民に福運を与えん」とのお告げがあり、その船は淀川、鴨川をさかのぼって水源の地・奥宮辺りの川のそばから水の湧き出るところに船を留め、そこに御社殿を建てたと伝えられている。 奥宮の本殿の下には、今も龍穴がある。大和の室生龍穴や備前のそれと共に日本三大龍穴の一つとされている。これがため、従来本殿の修理に際しては、附曳神事というのが行われた。先ず本殿の西に手広い菰を結び付け氏子一同烏帽子浄衣の白装束で、本殿を東の権地に引移す。そこで龍穴は自然に菰で覆われる。龍穴は人目を忌むから、しめ縄にて菰をくくり、竣工の時、まず締を解き、本殿を旧位置に復して正遷宮の儀に及ぶ。 伝説によると、文久年間の修理の時、大工が誤ってノミを龍穴に落としたところ、晴天俄かに墨の如くなり突風が吹きすさんでノミを空中に吹き上げたといわれる。 境内には御船型石(玉依姫の船を小石で覆ったもの)がある 旧本社(奥宮)の現鎮座地への遷座は、近衛天皇・天喜3年(1055)のことで、旧社地が貴船谷の最低地にあったためしばしば水害に見舞われ、天喜3年の洪水による社殿流失を契機として現在地に遷ったという。 |
関係氏族 貴船大明神がこの地に降臨したさい仏国童子という者を伴つた。この童子は大明神の命を守らず天上の事をややもすると物語つたので、大明神の怒にふれ舌を八裂にされた。そこで芳野山に飛入り五鬼どもを従へていたが、やがて許されまた大明神に仕えるようになつた。 仏国童子の一子僧国童子は丹生大明神に仕へ、その後吉野山に踏入り五鬼をはじめ小鬼どもを從へていたが、やがて帰り來つて貴船大明神に仕へた。 僧国童子の子を法国童子といひ、その孫の代より先祖の事を忘れぬように舌氏を名乗るようになつた。 本来貴船神社の神官として奉祀してきたのは右の説話に出てくる舌氏一族であつたが、賀茂別雷神社の支配下に入つてからは、賀茂縣主一族中より禰宜・祝各一員が勅宣により補任され神事を勤仕するようになり、舌氏一族はその下で雑役を勤仕するように変つた。 社殿左手の高所に“船形石”との石囲(長10m・幅3m・高1.5m)があり、皇母・玉依姫が乗ってきた“黄船”を石を囲んだものという。
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貴船神社奥宮 当地は、貴船神社が当初ご鎮座されたところで、当社の祭神も本宮と同じく雨や水をつかさどる神・高お神である。 社殿によれば、「反正天皇の時代、(五世紀初め頃)に、玉依姫(神武天皇の母)が黄船に乗って浪速(大阪)から、淀川、鴨川、貴船川をさかのぼって当地に上陸したが、そこに祠を営んで水神をまつったのが当社の起こりである。」とのことで、地名および社名の起源をこの「黄船」にもとめる説もある。 境内の本殿横には、この伝説にまつわる舟形石があり、これを積み囲んだ小石を持ち帰ると航海安全につながるとされた。 また、本殿下には巨大な龍穴(縦穴)があり、文久年間(十九世紀中頃)の本殿修理の祭、大工があやまってノミをこの中へ落としたところ、一天にわかにかき曇り、風が吹きすさんで、ノミを空中に吹き上げたという。 このほか、宇治の橋姫の奇談や和泉式部の恋願成就など、当社にまつわる逸話は数多い。 なお、当社境内周辺には、1985(昭和60)年6月に京都市指定天然記念物に指定されたカツラをはじめ、高木が数多く見られ、自然の宝庫としても興味深いところである。 京都市 社頭掲示板 |