伊多太神社[崇道神社境内社]
いただじんじゃ               . 所在地ボタン 社名ボタン

















   【延喜式神名帳】伊多太神社 山城国 愛宕郡鎮座

   【現社名】伊多太神社
   【住所】京都市左京区上高野西明寺山町34
       北緯35度3分56秒,東経135度48分2秒
   【祭神】伊多太大神
   【例祭】5月5日 例祭
   【社格】
   【由緒】応仁・文明の乱(1467−77)により焼失、以後衰退
       明治41年崇道神社に移転
       大正4年、崇道神社内に伊多太神社は合祀された

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは西450mにあったが明治41現地へ遷
        大正4年、崇道神社内に伊多太神社は合祀された

   【祭祀】継続しているといえるか

伊多太神杜は洛北唯一の古い神杜で、祭神伊多太大神は元当村の氏神であった。
湧水の神であり農業の神であり都丑寅に当たり、小野神社二座(祭神小野妹子、天武天皇重臣小野毛人677年)と共に王城鎮護神として延喜5年延喜式内社となった。
伊多太は湯立の詑で社前には池ノ内、市川、大湯出、等良田があった。往古の伊多太神社の神事(湯立儀)は出雲系同様の神事で、巫子は宮中に奉仕した。近世は学問の神として都人士多数に崇奉されている。明治41年7月崇道神社に合祀され遙拝所のあつた現在地に遷された。
崇道神社境内、社務所の正面に相対してある。


伊多太神社

伊多太神社は、洛北唯一の古い神社で、祭神伊多太大神は元当村(上高野)の氏神であった。
湧水の神・農業の神で都の丑寅に当たり、王城の鎮護神として延喜5年延喜式内社と成った。
伊多太は、湯立の訛で社前には池ノ内・市川・大湯等の良田があった。
近世では、知恵の神、学問の神として、多数人の方々から崇奉されている。
明治41年7月当地崇導神社に合祀された。

社頭掲示板



伊多太神社

伊多太神社は、洛北唯一の古い神社で、祭神伊多太大神は元当村氏神であった。
湧水の神・農業の神で都の丑寅に当たるので、小野神社2座(祭神小野妹子天武天皇重臣小野毛人)と共に王城の鎮護神として延喜5年延喜式内社と成った。
伊多太は、湯立の訛で社前には池ノ内・市川・大湯出等の良田がある。
往古より伊多太神社の神事(湯立儀)は出雲系と同様の神事で坐女は宮中に奉仕した。近世には、知恵の神として都人多数に崇拝されている。
明治41年7月当地崇導神社に合祀された。
昭和45年11月
文学博士 志賀剛 鑑識

社頭掲示板



伊多太神社

伊多太神社は洛北唯一の古い神社で、祭神伊多太大神は元当村の氏神で有った。
湧水の神で有り農業の神で有り都丑寅に当り小野神社二座(祭神小野妹子、天武天皇重臣小野毛人六七七年)と共に王城鎮護神として延喜五年延喜式内社と成った。伊多太は湯立の訛で社前には池ノ内、市川、大湯出、等良田が有った。往古の伊多太神社の神事(湯立儀)は出雲系同様の神事で、巫子は宮中に奉仕した。近世は学問の神として都人士多数に崇奉されている。明治四一年七月崇道神社に合祀された。
延喜式とは延喜五年(九〇七年)八月醍醐天皇の命で編纂に着手し延長五年(九二七年)に奏進されたが施行はおくれ、約四十年後の康保四年(九六七年)になって施行された古代の法典である。「式」とは法律模範の意味である。全部で五〇巻からなりその巻九・十が神名式になっていて、それに記載されている神社を式内社と称している。それは当時の官社(元慶年間八七七〜八八五年頃決定を見たものと推定される)を國郡別に列記したもので、一般に「神名帳」と言われる。この神社は官幣国幣のみで以外の神社は記載なく当時の社格をあらわしたものである。山城は一二二座で第七位、京都市内は四九座の内上高野は出雲高野神社、出雲井於、伊多太、小野二座の四社五座が記載されている。

由緒書



伊多太神社

伊多太は假字也○祭神詳ならず○在所今廃亡す、高野村西北の山際に旧跡の森あり、
名勝志に、高野村崇道天皇末社九神の中に、いたいたの大明神、按神名帳云、伊多太神社愛宕郡ニアリ、疑此社歟、今高野村西山際ニ森アリ、社ハ絶ユ、有社領田字、9月9日祭之、土人いたいた大明神卜云、」山城志云、在高野村西山麓、今称伊多伊多宮、

神社覈録



山城国INDEXへ        TOPページへ