社傳には成務天皇12年壬午歳の創立と伝える。古来よりの名社で後鳥羽後醍醐両天皇の綸旨鎌倉室町將軍家の教書等が伝わっていたが明応年中此地に山本対馬入道の戦争があり、その兵火に焼亡してしまった。 社領も祠官も旧時は多かった、豊臣氏の時は下鴨社領の内にて年々三十石三升四合を領受していた。 このように「古来の名社」であるが、祭神は伊弊諾神と天津彦火々瓊々杵神とされており、式内の須波神社であつたとする証処はあまりない。 中世の宮座をしのばせる元服式(烏帽着)が伝わっている。 静原集落の北、山裾に鎮座している。叢林よく目立つ。 |
静原社由緒 社伝によれば、成務天皇12年3月午日に山城国愛宕郡志津原に鎮座す。 伊奘諾尊が高天原に坐し、瓊瓊杵尊が日向の高千穂峯に天降り、はじめは静原楢小川の上流「河合谷意美和良川」に鎮まられた。 古来、御本社に伊奘諾尊、奥御前に瓊瓊杵尊をまつったが、そのため合わせて「二宮社」と呼ばれる。また、天武天皇が逆徒に襲われ此所に臨幸され、玉体安らかに御心も静かにあそばされた為、静原と称す。そして、刀・弓・矛等を奉納され怨敵を退散されたため、江州浅井郡の地330石を御寄付され、和銅4年3月3日より祭祀を始める。 現社地を「真路山」、御旅所を「天皇社山」と称す。 天正検地で330石没収されるも、秀吉公より下鴨社領として30石が定められ明治に至る。そのため、静原沙汰人と称して下鴨神社の御蔭祭に奉仕する例が現在も続いている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |