賀茂別雷神社境外摂社 上鴨神社の南西、鴨川の対岸の紫竹の街中にある。賀茂一族の氏神で、氏神社ともいう。 賀茂別雷神社の境外摂社で賀茂縣主一族によつて古来より奉祀されてきた「氏神ノ社」である。祭神は祖先神たる賀茂建角身命であるとしているが、祭神には異説も多い。 当社が祀られるようになった経緯は不詳ではあるが「本社が朝廷の崇敬を受けてその祭祀も勅方に基き官幣によることとなつたため、別に社を設け一族のみの私の祭を営むことを考えつくようになつたというに尽きるのではなかろうか」と思われる。 神職については賀茂縣主一族の有資格者中より老若臈次の順によつて勅宣により補されていた。なお「昔より次第転任の社法にて、最末氏神社の社職には氏人より新補せられ候」(『賀茂注進雑記』)といわれているように、賀茂別雷神社本摂社の神官になるのは、まずこの氏神社の神官になることからはじまつていた。 禰宜・祝が廃されて以降は、賀茂別雷神社の神職中の一人が專任者となり社務を専当してきた。 祭神には異説も在り、国常立尊・天児屋根命・天太玉命・大物主神・武甕槌神などの諸説があるという。 式内・久我神社には当社以外にも論社がある。 ・賀茂御祖神社(下鴨神社)の摂末社で、“本宮(下鴨神社)の北に坐す”とする説『山城名勝記・神名帳考証・神社覈録』 ・河合社(下鴨神社・摂社)の西にあって、大二目命の子孫が奉斎する。古く乙訓郡にあり、桓武帝の京都遷都時に下鴨に遷した、とする説『鳥邑県纂書』 下鴨神社には、近世まで久我社と称する小祠があったようだが、今は消滅していて実体は不明。 |
賀茂別雷神社第八摂社 久我神社 祭神 賀茂建角身命 一柱一座 御神徳 御祭神が八咫烏となって道案内をされた御事蹟により、航空、交通安全の守り神として広く信仰され、又近隣各町の氏神として敬われている。 御由緒 延喜式内の古社。神武天皇御東進の際、八咫烏と化って皇軍を導き給い、賊徒の平定に功をたて、のち山城国に入り、この地方に居を定めて専ら国土の開発、殖産興業を奨め給うた最初の神であって、賀茂県主の祖神である。 本殿は一間社流造りで、拝殿と共に寛永5年(1628年)の造営である。 鎮祭当時より大宮と称えられたので、その前の通りを大宮通りと呼ぶようになったと言う。 京都市の指定史跡である。 祭典 例 祭 4月1日、11月1日 神幸祭 11月3日 八朔祭 9月1日 社頭掲示板 |
久我神社 鎭座年代未詳、(中略)賀茂健角身命ハ賀茂別雷命ノ外祖父ニシテ賀茂氏の祖神タリ、サレバ賀茂氏ガ本宮ニ奉仕スルト同時ニ祖神トシテ祀リタルモノナルハ明ナルガ当社ヲコゝニ鎭祭セルハ健角身命ノ墳墓ノ附近ナルヲ以テノ故ナリト云フ、然シテ当時ヨリ庶民コレヲ敬称シテ大宮ト唱ヘタリキ、此ノ故ヲ以テ当社ノ前ヲ通ズル道路ヲ大宮通ト称シタリシト云フ考フベシ。古來第八摂社タリシガ明治十年三月廿一日内務省ヨリ第六摂社ニ定メラル 官幣大社賀茂別雷神社由緒調書 |
久我神社 当社は、賀茂氏が大和から山城に移住するに際して祀った社の1つと見られている。『山城国風土記』逸文によると、賀茂建角身命は神武天皇の東征に功を成したのち、大和から「山代の国の岡田の賀茂」、「葛野川(桂川)と賀茂河(鴨川)との会う所」、「久我の国の北の山基」の順に遷座したといい、それぞれの地には現在も賀茂氏の氏神が祀られている。それぞれの比定地は次の通り。 1.山代の国の岡田の賀茂 - 現在の京都府木津川市加茂町。式内社の岡田鴨神社(位置)が鎮座。 2.葛野川と賀茂河との会う所 - 現在の京都府京都市伏見区。式内社の久何神社(現・久我神社、位置)が鎮座。 3.久我の国の北の山基 - 当社付近。 当社が現在地に祀られたことに関しては、付近に賀茂建角身命の墳墓があったためとする伝承があるが、明らかではない。 ウィキペディア |
久我神社 久我は古賀と訓べし○祭神建角身命(頭注』祭事記)○下鴨村御祖社の北に在す(名勝志○山城風士記云、賀茂建角身命云々、定坐久我国之北山基從爾時名曰賀茂、(全文別雷社條下に出す)○御祖社の未社也山城志云、山口波爾久我末刀神社、混雑下賀茂小祠、今不可考、 類社 山城國乙訓郡久何神社 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城國正六位上久我神從五位下、 社頭掲示板 |