小野神社[崇道神社境内社]
おのじんじゃ                . 所在地ボタン 社名ボタン


























   【延喜式神名帳】小野神社 二座 鍬靫 山城国 愛宕郡鎮座

   【現社名】小野神社
   【住所】京都市左京区上高野西明寺山町34
       北緯35度3分56秒,東経135度48分2秒
   【祭神】(配祀)小野妹子命 小野毛人命
   【例祭】10月17日 小野神社例祭
   【社格】
   【由緒】貞観元年(859)正月27日従五位下
       昭和46年5月地元民の手で小野神社が崇道神社の境内に再建

   【関係氏族】愛岩郡小野郷の小野氏
   【鎮座地】この地が小野神社の旧地として昭和46年に再建された。

   【祭祀】昭和46年の再建までの継続性はない。

往古の小野神社は現在の御蔭神社であるとする『京都府式内考証』
上田正昭氏は、小野神社の旧地に崇道神社が創祀されたのではないかとし(『京都千年』)、志賀剛氏も崇道神社は小野神社のあとであるとするが(『式内社の研究』第三巻)、『崇導神社誌』はこれを否定し、崇道神社の川向いの里堂と呼ばれる同社の神輿庫のある土地の東側になるズンジヨの森が小野神社の跡ではないかとする。しかしいづれにせよ、往古の小野神社が上高野にあつたことは間違いないとして、昭和46年5月、地元民の手で、小野神社が崇道神社の境内に再建された。
写真上段3葉は崇道神社、下段2葉は境内社の小野神社。 小野神社は社務所の東下、小野毛人の墓の参道入り口に鎮座する。


小野毛人墓

天武朝の官僚であった小野毛人は、最初の遣随使小野妹子の子で、天武6年(677)に没したとされる。
慶長18年(1613)、崇道神社境内の上高野一帯を見渡す山腹の墓から鋳銅製の墓誌が発見され、この墓が小野毛人を埋葬したものであることが明らかとなった。大正3年(1914)、墓誌は国宝に指定され、現在京都国立博物館に保管されている。
墓は、大正3年に調査され、その結果、板石で作られた石室は長さ約2.5メートル、幅及び高さ共約1メートル・当初は封士が施されていたものとみられる。
この墓は、市内に残る奈良時代前期の数少ない遺跡であり、当時の墓制を知るうえでも貴重なものであることから、昭和59年6月1日京都市指定史跡に指定された。
京都市

社頭掲示板



崇道神社

奈良末期〜平安初期の皇族、早良親王を祀る。
早良親王は、光仁天皇・高野新笠(たかののにいがさ)の子で、桓武天皇の実弟である。延暦4年に起こった藤原種継暗殺事件の首謀者として逮捕され、乙訓寺に幽閉された後、淡路に流される途中、無実を主張して絶食死した。
その後、桓武天皇の近親者の死が続き、都に悪疫が流行したため、早良親王の崇りと噂され、その怨霊を鎮めるために延暦19年には崇道天皇と追号を贈り、墓を現在の八島綾へ改葬した。
ほかに、藤森神社・上御霊神社にも崇道天皇が祀られているが、崇道天皇のみを祭神としているのは、この崇道神社だけである。
京都市

社頭掲示板



崇道神社

奈良末期〜平安初期の皇族早良親王を祀る。
早良親王は、光仁天皇高野新笠の子で桓武天皇の実弟である。延暦4年に起こった藤原種継暗殺事件の首謀者として逮捕され乙訓寺に幽閉された後、淡路に流される途中無実を主張して絶食死した。その後桓武天皇の近親者の死が続き、都に悪疫が流行したため、早良親王の崇りと噂されその怨霊を鎮めるために延暦19年に崇道天皇と追号を贈り墓を現在の八島陵へ改葬した。創祀年代は不明であるが、この地が若狭街道の交通の要になっていること、都の鬼門にあたることなどから、貞観年間(859〜77)以降と推定される。ほかに藤森神社、上御霊神社にも崇道天皇が祀られているが、崇道天皇のみを祭神としているのは、この崇道神社のみである。
小野神社
小野氏が創祀した神社で、小野氏の一族を祀る。当初は崇道神社の川向かいにある神社の御旅所、里堂(みこし庫)の南側に2m位の石垣の上に明治時代までズンショ(神所或いは十三祠)の森があり祠が祭ってあった。その森が小野神社の跡ではないかとの説がある。
現在崇道神社の境内にある小野神社は、昭和46年5月地元の人々によって再建され小野毛人を祀っている。毛人の墓は社の左手150m程登った山腹にある。尚、墓誌は国宝に指定され現在は博物館で保存している。

由緒書



小野神社二座 鍬靫

小野は乎乃と訓べし、和名鈔、(郷名部)小野、(假字上の如し)○祭神小野氏祖神歟○在所詳ならず○姓氏録、(山城国皇別)小野朝臣、阿部朝臣同祖、大彦命之後也、
山城志云、在高野村、」こは河海抄に、小野大原也、仍比叡坂下云也、小野郷内大原村也、布陰と云物に見えたり、」花鳥余情に、愛宕郡に小野里あり、云々、野府記に、寛仁2年11月1日己未(賀茂社封内)予今申云、小野山若可被寄乎否、比叡鞍馬可在斯内、などあるを証として云るならめど、今差定むべき社なし、』比保古頭書云、今在葛野小野杉坂村、』こは今ある道風社をさせるなるべけれど、是も慥ならず、何にまれ、小野氏の神には差ふまじ、猶考ふべし、
類社
近江國滋賀郡小野神社二座、(名大)相模国愛甲郡、武蔵国多摩郡、近江国高島郡、但馬国出石郡、土佐國長岡郡小野神社(各一座)
神位
三代實録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城国正六位上小野神從五位下、

神社覈録



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