「波爾(ハニ)」土で、土器を意味する。 土器製作に従事する「西埿部氏」の氏神とする説がある。 通称「赤ノ宮」。賀茂波爾神社が衰退した後、赤ノ宮稲荷が勧請され、今でも社殿横に稲荷がある。 ただし、これは昭和の創祀(権九郎稻荷神社)。拝殿脇きに、「波爾井」と称する御神水がある。 明治15年に赤ノ宮を賀茂波爾神社に指定した。 『鳥邑縣纂書』には、「赤の宮は今は新田河原にあり、村の氏神なり、但波尓社は退転し、今の赤の宮は稲荷神なり、元禄の勧請なり」とある。 |
賀茂波尓神社 御祭神 波邇安日子神 波邇安日女神 御祭神の波邇安日子神、波邇安日女神は天照皇大神の御弟神で大地を守護し、万物の生成発展、殖産興業をはじめ方除、災難除、疫病、厄除け等多方面に亘っての御神徳を備えられている。 創建の年代は不詳であるが、延喜式神名帳に「賀茂波邇神社二座」とある社で延喜年間以前からこの地に山城平野の総鎮守神として奉祭された。 現在の社名は賀茂御祖神社第4摂社賀茂波邇神社であるが、明治10年3月に官幣大社賀茂御祖神社の摂社に加列し、それ以前は村社波邇神社と云い、単に赤の宮とも呼ばれていた。京洛でいまなお親しく赤の宮と呼ばれている所以は江戸時代に赤の宮稲荷大明神と呼ばれ、稲荷神、迦遇突智神とが併せ祀られていた。一般に稲荷の神を祀る社は、社殿を朱に染めるところから、当神社も古くは丹塗りであり、誰言うなく赤の宮の名が起こったのであろう。また、当神社の祭神を西泥部、土師などが祖先神と仰ぐところから、赤土の宮が赤の宮となったとする説もある。 当神社の鎮座地は高野川の畔であるところから、度々河川の氾濫により社殿は流失し、田畑は荒廃を極めたが、寛文11年(1661)頃、修学寺(修学院)に御本屋、離宮が造営されその御幸路に接し、また同じ頃、高野川流域の新田開発が成功して以来急速に発展し今日の賑わいを見るにいたった。 社頭掲示板 |
賀茂波尓神社 賀茂は前に同じ、』波爾は假字也、○祭神詳ならず、(伴信友云、玉依彦命)○在所詳ならず○姓民録、(山城國神別)西泥部、鴨縣主同祖、鴨建玉依彦命之後也、 山城志云、山口波爾久我末刀神社混雑下賀茂小祠、今不可考、」考証云、今上賀茂摂社土師尾社、』連胤按るに、波爾は元より地名なる事、一代要記に、嵯峨天皇弘仁元年10月27日、御禊、山城国愛宕郡小野郷埴河松崎瀬、(類聚國史同日の処には、禊於松崎川、縁大嘗曾事也、)また寛仁2年11月22日太政官符、(愛宕郡捌簡郷奉寄賀茂大神宮事の條)云々、勅旨涅沱埴川氷室揺丁陵戸等田、拾芥抄、(禁河部)埴河、(印本埴作埴非)夏供鮎、(此外諸書にも埴川の事見えたり)百練抄云、保安4年7月18日、天台衆従、為先神輿、欲乱入京中、公家遣武士、相禦于埴川辺之間、■御輿退散、など見えたれば、名勝志に、埴川八瀬川也、今俗曰高野川といへるが如くなるべし、さて此埴ならば、小野郷ノ内にして、必別電社に隷べきに、今御祖社の末社に混乱すといふをおもふに、必西泥部の氏神にこそあらめ、今も御祖社の被官に、西泥部氏の存在すれば、中古廃亡の時、其仕奉れる御祖社の社地などに移せしが、竟に其由緒志れず成たるなるべし、抑当社を御祖社末社に混乱すといふに拠ておもへば、波爾の地に坐し神を、爰にも祭れるなるべし、さてはそれを分むために、賀茂の名を冠らせしにで、今も御祖社の被官なる西泥部の氏社とせしが、竟に社壇は荒廃せしにもやあらん、猶考ふべし、 神社覈録 |