賀茂山口神社[賀茂別雷神社境内摂社]
かもやまぐちじんじゃ                          . 所在地ボタン 社名ボタン















   【延喜式神名帳】賀茂山口神社 山城国 愛宕郡鎮座

   【現社名】賀茂山口神社(沢田社とも称す)
   【住所】京都市北区上賀茂本山339
       北緯35度3分34秒,東経135度45分12秒
   【祭神】御歳神
       大山祇神 『神社覈録』
       山守神『鳥邑縣纂書』

   【例祭】
   【社格】
   【由緒】貞観元年(859)正月27日従五位下
       明治10年3月21日内務省より第五摂社に定められた

   【関係氏族】
   【鎮座地】本来の所在地不詳。移転の経緯も不詳。

   【祭祀】近世には失われており、祭祀の継続性はない。

片岡山の南麓に鎮座している。
本社本殿の東南、末社岩本社の東に当り、奈良の小川(御手洗川)の東側にある。
沢田社ともいい、須波神社とともに上賀茂神社の境内摂社の一である。
御歳神を祭神とし、本社の御田をはじめ神領地の田畑の守護神として崇敬され、6月10日の御田植祭には、当社に於いても祭典を奉仕するならわしになっている。
当社を賀茂山口神社とする積極的な根拠はなく、恐らく近世には賀茂山口神社の所在はすでに全く不明となつていたのであろう。それを明治になつて澤田社をもつて式内賀茂山口神社にあて奉齋しているが、正しくは『神社覈録』のいうように「在所詳ならず」とすべきであろう。
賀茂山口神社を下鴨神社の摂末社の一社という説(社名不明)もある。
境内は「渉渓園」と呼ばれる庭園となっており、昭和35年にかつて本社で行われていた曲水宴を復活させるために整備されたもの。


賀茂山口神社

摂社賀茂山口神社
祭神 御歳神 一柱一座
鎮座年代不詳 延喜式内の古社、沢田神社とも云う。
本宮の御田を始め神領地の田畑守護の神である。

社頭掲示板



渉渓園

この地は上賀茂神社境内奈良の小川の上流御手洗川の東岸摂社賀茂山口神社の前庭に位置し約500坪の地で古くは神宮寺の小池が存在した所と伝える。昭和35年皇孫浩宮徳仁親王殿下御生誕の奉祝行事として嘗て当神社に於て催された曲水の宴を復活せんが為それにふさわしい庭園を造ろうとして当時の府文化財保護課技師 中根金作氏に委嘱され平安時代末期頃の庭園として設計され渉渓園と名付けられた。又この地は北縁の鶴岳の鬱蒼たる翠岳を負い東方には境内林の巨木を帯し南方は広闊なる境内芝生に連なる 園の中央部に南北に曲溝を穿ち御手洗川の分流沢田川より分水して緩流を通した。その曲流を中心に桜楓樹を常盤木に配し躑躅馬酔木や灌木を添え所々に石組みを施して風趣にみちた頗る清楚な姿を現出した。然れども昭和35年に復活された曲水宴も再度中止のやむなきに至り園も荒廃するにまかせた。然るところ京都紫野ロータリークラブが平成5年度社会奉仕事業の一環として園の整備とその保存会結成に努められた。時恰も皇太子徳仁親王殿下御成婚の儀が斎行され、明けて平成6年平安建都1200年、当社第41回式年遷宮斎行の年であり、奉祝記念事業として曲水宴が復活されることになった。この庭園に展開される曲水宴は平安時代のそれを再現するもので詩歌の吟詠管弦の弾吹奏はさながら楽王の神遊びもかくやとばかりに真に一幅の活画であるといえよう。又御手洗川の流水を隔ててその西方に連なる苑林(朝鮮李朝の庭園を模したと伝える)と相並んで当神苑として永く保存されなければならぬ。
平成6年3月 賀茂別雷神社

社頭掲示板



賀茂山口神社

賀茂は前に同じ、』山口は也来久知と訓べし、○祭神大山祇命歟○在所詳ならず
山口神と申すは、必大山祇神を祭るならん、大和國に数多祭り、祈年祭祝詞にも、天照大御神に続き、御縣坐神水分坐神等に列ねて殊更なるは、故ある事なるべじ、なほ所々の山口神考へ合すべし、○山城志云、山口波爾久我末刀神社、混雑下賀茂小祠、今不可考、
類社
大和國添上郡夜支布、同國平群郡伊古麻、同國葛上郡巨勢、鴨、同國葛下郡当麻、大坂、同國吉野郡吉野、同國十市郡石寸、耳成、同國山辺郡都祁、山口神社、(各一座並大月次新嘗)
神位
三代實録、貞観元年正月27日甲申、奉授山城國正六位上鴨山口神從五位下、

神社覈録



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