御蔭神社
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   【延喜式神名帳】出雲高野神社 山城國愛宕郡鎮座
   【延喜式神名帳】小野神社 山城國愛宕郡鎮座
   【現社名】御蔭神社
   【住所】京都市左京区上高野東山207
       北緯35度3分46秒,東経135度48分22秒
   【祭神】賀茂建角身命荒魂 玉依日売命荒魂
   【例祭】5月12日 例祭
   【社格】 
   【関係氏族】賀茂氏
   【鎮座地】鎮座地の移動はない。太古鴨の大神が降臨された所と伝えられている。

   【祭祀】創建時より連綿として祭祀は継続している。出雲高野神社、小野神社としての継承は不詳

叡山電鉄終点、八瀬駅から高野川を越えて南の山の中ある。
高野川沿いに西へ続く山道の途中に赤い鳥居がある。
この社地は、太古鴨の大神が降臨された所と伝えられているところから御生山と呼ばれている。
毎年、賀茂祭(葵祭)に先だって、5月12日には、御蔭祭(御生神事)が当神社で行われる。当日は、神馬に錦蓋を飾り、神鈴を付け、鉾、太刀、弓、槍などの御神宝を捧げ持ち、社殿には阿礼(あれ)を掛ける。数多くの供奉者は葵桂をかざし、本宮を進発した行粧は、この社に到着する。社前において、午の刻、御神霊は神馬に移御になり、御本宮に遷御になる。途中、総社における路次祭、御本宮契の神事等が行われる。
天武天皇6年(677)、山背國司が造営したと伝えられる賀茂神宮は、当神社であろうとの説があり、この地は古代から山背北部豪族の祭祀の中心地であり、近隣には数々の遺跡が存在する。
山中森の中の神社。出雲神社の表示無し。
往古の小野神社は現在の御蔭神社であるとする『京都府式内考証』
古くは現在の本殿北東の麓に鎮座していたが、元禄6年(1693)御本宮式年遷宮の際に現在地に造替された。


御蔭神社

この社地は、大古鴨の大神が降臨された所と伝えられているところから御生(みあれ)山と呼ばれており、東山三十六峰第二番目の山である。
さらにまた、太陽のたた射す所、即ち、御蔭山とも呼ばれそれに因んで社名ともなった。
御祭神は、御本社賀茂御祖神社の御祭神の玉依媛命、賀茂建角身命、二柱の荒魂を奉祀されている。
現在の社殿は、元禄6年(1693)御本宮遷宮の際に造替された。それまでは、現在の本宮北東の麓に鎮座されていたが、地震等の災害に依って殿舎が埋没したため現在の地に御動座になった。
天武天皇6年(677)山背国司が造営したと伝えられる賀茂神宮は、当神社であろうとの説があるとおり、この地は古代から山背北部豪族の祭祀の中心地であり、近隣には数々の遺跡が存在する。
毎年、賀茂祭(葵祭)に先立って5月12日には、御蔭際(御生神事)が当神社で行われる。当日は神馬に錦蓋を飾り、神鈴を付け、鉾、太刀、弓、楯などの御神宝を捧げ持ち、社殿には阿礼(あれ)を掛ける。
数多くの供奉者は葵、桂をかざし、本宮を進発した行粧は、この社に到着する。社前において、午の刻、御神霊は神馬に移御になり、御本宮に遷御になる。途中総社における路次祭、御本宮切芝の神事が行われる。
朝廷からは、阿礼料や幣が奉献されるなど鴨社創祀の祭とされてきた。
また、神馬の御神前で行われる三台塩(三台詠)を中心とする神事芸能は、わが国最古の祭儀式を伝えるものとされ、行粧もまた最古の神事列と伝えられており、葵祭と並ぶ優雅な行粧として名高く、室町時代にはいると数々の資料に登場する。
現今、道中は交通煩雑のため、やむなく自動車列とはなったが、当神社並びに御本社糺の森での神事は古儀に依って厳粛に行われている。
賀茂御祖神社

社頭掲示板



御生山(みあれやま)

御生山(みあれやま)は、御蔭山(みかげやま)、二葉山(ふたばやま)とも呼ばれる。東山三十六峰2番目の標高(146m)がある。御蔭山は下鴨神社の神体山とされている。
 この地は、賀茂の大神の降臨地といわれ、玉依売命が賀茂別雷命(大山咋命の子)を産んだ産屋(うぶや)として、「御生山(みあれやま/ みしょうやま)」と呼ばれたともいう。また、比叡山の西、日尾之前(ひのおのまえ)に大巌があり、当社地として玉依売命の陵だったともいう。(『日吉社禰宜口伝抄』)
 祭神の賀茂建角身命の荒御魂(あらみたま)とは、御生(みあ)れしたばかりの神霊を示す。下鴨神社の祭神の荒御魂を祝祀する。「御生」のほかに「御荒」「御顕」「産霊」の字も当てられた。また、「太陽がただ射すところ」から御蔭山と呼ばれ、御蔭神社の由来になったともいう。
 御生山の史料初出は『延暦寺文書』(818年の条)で「西 神聖影山」(みかげやま)とある。平安時代の右大臣・藤原実資の日記『小右記』(1016)には「鴨大御神、天降り給ふ。小野里、大原、御蔭山なり」と記述があり、平安時代には広く御蔭山と呼ばれていた。
 鎌倉時代の歌人・藤原為家の歌にも「契りをきて くもらぬ神の みかげ山 むかしの跡ぞ 今もかしこき」とある。
 山は二葉山ともいわれた。付近に二葉葵が自生したことに因むという。また、「御形(みかた)山」、「高野山」ともいわれた。

京都風光



御蔭神社

賀茂御祖神社 境外摂杜
(下鴨神社)
史跡 賀茂御祖神社境内 昭和58年3月29日指定
境外摂社 御蔭神社 平成27年10月7日追加指定
御蔭神社は賀茂御祖神社の境外摂社で、大原盆地に端を発した高野川が八瀬を抜け、京都盆地へ流れ出る直前の南岸に位置する。祭神は本社と同様、賀茂建角身命・玉依媛命の二座を祀っている。御蔭神社の初見は応保元年(1161)であるが、御蔭神社があったと考えられる御蔭山については、寛仁2年(1018)の「小右記」に、小野郷大原御蔭山は皇御神が天より降りた場所である。と賀茂御祖神社の社司が述べていることが記されており、この頃には賀茂御祖神社にとって御蔭山が祭神降臨の地であるという認識があったことが分る。
賀茂御祖神社で執り行われる重要な神事として賀茂祭があるが、これに先立ち祭神を降臨地である御蔭山から本社へ迎える御生神事が行われている。この神事は、応仁の乱後中絶したものの、元禄7年(1694)に賀茂祭とともに復興しており、御蔭神社を起点として行われている、その後御蔭神社は宝暦8年(1758)や文政12年(1829)の度重なる水害により、社殿が流されたが江戸幕府の裁定により、天保5年(1834)に旧社地から少し離れた高台に移転した。現在の社殿は、柿葺一間社流造で東西二棟の本殿と本殿の正面中央に柿葺入母屋造の社殿が配される。本殿はいずれも天保5年の建築である。
このように、御蔭神社境内は、本社である賀茂御祖神社と密接に関わる境外摂社である。よって、史跡に追加指定し保護の万全を図るものである。
平成28年3月吉日
文部科学省
賀茂御祖神社

社頭掲示板



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