崇道神社
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   【延喜式神名帳】出雲高野神社 山城国 愛宕郡鎮座

   【現社名】崇道神社
   【住所】京都市左京区上高野西明寺山町34
       北緯35度3分57秒,東経135度48分2秒
   【祭神】早良親王
   【例祭】
   【社格】
   【由緒】貞観年間(859−77)創建
       大正4年近隣にあった式内社とされる出雲高野神社・伊多太神社・小野神社の3社を合祀

   【関係氏族】出雲氏(出雲高野神社は)
   【鎮座地】この場所が出雲高野神社であった確証はない

   【祭祀】祭神伝わらず不詳

社伝によれば、785年(延暦4年)9月長岡京造宮使であった藤原種継が暗殺された事件に連座したとされる早良親王(崇道天皇)の霊を慰めるため貞観年間(859年〜877年)に創建されたという。
洛北のはずれに建つ古社。桓武天皇の弟、早良親王が祀られている。
創建年代は不明。 早良親王は反桓武勢力の中心と目され、淡路へ配流の道中、大山崎で怨念を残しつつ憤死。その後、都の内外に事故や異変が続発したため、親王の怨念の祟りとして、親王に崇道天皇の追号を送り、鎮魂の行事を盛んに行った。ここは都の鬼門にあたり、また北陸への要衝でもあった。
『山城國式社考』は「高野村にあり、今御霊と称す」と崇道神社にあて、伴信友『神名帳考証』もこれを承け「今高野村東ノ山下ニアリ、例祭三月五日也、霊応著明ノ神也、(神祇拾遺)云八所御霊之内崇道天皇(早良親王也)山城國高野御霊云々」と記している。
境内豊受皇大神宮・天照皇大神宮と並んだ右に出雲高野神社の小祠があり。ただし、境内社であるとの言い伝えはない。
一説にもと出雲路にあったのを、この地(小野郷)に移したものといい、現在の上御霊神社は当初の後身だろうといわれる。


由緒

当社は桓武天皇の皇弟早良親王(崇道天皇の諱を追尊)を奉祀する旧高野村の産土の社で、その創建年代は詳かでない。延暦4年に長岡京使藤原種継暗殺事件がおこり、親王も関係ありとされて、淡路へ配流の道中大山崎で怨念を残しつつ憤死された。その後朝廷を始め、都の内外に不吉な事故と奇妙な異変が続発した。
これらの怪異天災は親王の怨念の祟りがあると占に出たために鎮魂の行事が盛んに行われた。都の鬼門に当たると共に北陸への要衝のこの高野の地に御霊社として親王を祀ることになった。
御霊信仰の全国的に流行する貞観時代に早良親王のみを祭った例はない。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




崇道神社之碑

  山城愛宕郡高野村崇道神社之碑
上古之事方策不備往々取徴於神社而氏族盛衰動輒廟易主社絶祀非好学深思心知其意何能得其沿革之故哉延喜式載山城愛宕郡有出雲高野神社及出雲井於神社蓋並古出雲氏所崇祀於其食邑出雲氏衰小野氏以孝昭之胤大徳妹子又有渡海専対之功跨有城江愛宕之小野郷見於和名類聚鈔延喜式又有小野神社二座亦在高野村延暦奠都 廷旨尤崇加茂両社於是出雲井於神社及小野神社並折而見摂於下加茂矣中世已還神祇失官両部習合之説張而 先王神道設教之意荒有出雲寺者為御霊社祝所謂八所御霊最重崇道天皇於是併出雲高野社改祀御霊称曰崇道神社延喜式又有伊多太神社今高野村西林■鬱然乃其旧址亦旧出雲氏所祀今已合於崇道社於是崇道社儼為高野村総社焉明治維新崇敬神祇諸所施為多因延喜旧文而酌定之惟高野之崇道社遂不復於古然村中尸祝与農戸倶厳事総社猶出雲氏之遺又慶長中社後山崩出小野毛人朝臣墓志毛人者妹子々也大正四年官定為国宝亦蔵於崇道社於是出雲小野二氏之鬼与八所御霊皆獲血食於一社歳時脩祭虔粛無二嗚呼是合於 先王設教之意者非耶今茲 朝廷行即位儀蒸嘗之礼一遵古制村民仰体 盛旨欲効報本之誠於総社雕劉楽石求文於予因作銘曰  湛酒於罍盛粢於豆歌呼羞之以求神佑稲粱充羨里庶且富癘疫■熄人康而寿弓弭之貢手未之調勿怠勿替助祭宗廟悦懌民誠弗爽施報降格民旁神徳之邵
  大正四年十一月  (内藤湖南博士撰文)

境内碑



小野毛人墓誌

国宝
金銅小野毛人墓誌(附:銅函1合(延宝元年11月在銘)、発掘関係書類1通) - 1961年4月指定
奈良時代の墓誌。銅製・鍍金。寸法は長さ58.9cm、幅5.9cm。江戸時代の慶長18年(1613)に崇道神社背後の山中で発見され、土葬石室に埋納されていたという。延宝元年(1673)に銅製墓誌函が作られ、宝永2年(1705)には発見に関する文書が記されている。元禄10年(1697)に再び埋納され、大正2年に墓の調査に伴い再び発掘された。墓誌の表裏には次の文言が刻まれている。
(表)飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上(裏)小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬
小野毛人は『続日本紀』和同7年(714)4月条に拠れば遣隋使である小野妹子の子で、天武朝期には太政官兼刑部大卿の地位にあったという。墓所は山城国愛宕郡小野郷にあたり、小野氏の故地に比定される。天武天皇6年(677)に墓が作られているが、墓誌の作製は文中の官職、姓などの用語から見てやや時代が下り、毛人の子小野毛野による追納で、持統朝期であると考えられている。墓誌は京都国立博物館に寄託されている。[



崇道神社

奈良末期〜平安初期の皇族、早良親王を祀る。
早良親王は、光仁天皇・高野新笠の子で、桓武天皇の実弟である。延暦4年に起こった藤原種継暗殺事件の首謀者として逮捕され、乙訓寺に幽閉された後、淡路に流される途中、無実を主張しで絶食死した。
その後、桓武天皇の近親者の死が続き、都に悪疫が流行したため、早良親王の崇りと噂され、その怨霊を鎮めるために延暦19年には崇道天皇と追号を贈り、墓を現在の八島陵へ改葬した。 ほかに、藤森神社・上御霊神社にも崇道天皇が祀られているが、崇道天皇のみを祭神としているのは、この崇道神社だげである。
京都市

社頭掲示板



出雲高野神社

出雲は前に同じ、」高野は多加乃と訓べし、○祭神在所等詳ならず○姓氏録、(右京諸蕃下)高野造、百濟國人佐平余自信之後也、
連胤按るに、山城志に在高野村称御霊、と云るは信用がたし、こは神祇拾遺に、八所御霊内崇道天皇、山城国高野御霊と見え、出雲寺流記に、延暦年仲遷都之時、崇道天皇之御崇依不止、此後永代無遷都、末代鎮守云々、とあれば、当社を出雲高野神社とは差定めがたくや、されど当郡に高野と云地名、今の高野村の辺にも及びたるや、其徴いまだ知らず、
恐らくは出雲郷に坐す高野神にて別社なるか、廃亡せしにもやあらん、
類社
近江國栗太郡、同国伊香郡、因幡國巨濃郡、美作國苫東郡高野神社、(各一座)

神社覈録



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