下御霊神社
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   【延喜式神名帳】出雲井於神社(大 月次/相甞/新甞) 山城國愛宕郡鎮座

   【現社名】下御霊神社
   【住所】京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町
       北緯35度1分0秒,東経135度46分3秒
   【祭神】八所御霊
   【例祭】
   【社格】旧府社
   【由緒】鎭座年月日は不詳
       貞観5年(863)5月20日平安京の神泉苑で御霊会が催された
       応永34年(1427)7月足利義持將軍造営
       天明8年(1788)火災
       寛政2年(1790)造営
       明治14年府社

   【関係氏族】
   【鎮座地】元は相国寺東門の東、毘沙門堂町付近(出雲郷(一条の北京極の西))にあつた
        後に新町出水の西に遷
        天正18年(1590)現地へ

   【祭祀】出雲井於神社の継承社としても特別の祭祀の継承は見られない。
   【公式HP】 下御霊神社
   【論社比定】志賀剛氏が比定
      @賀茂御祖神社境内は往古の出雲郷の地でない
      A上御霊神社を式内の出雲高野神社に比定したので下御霊神社を出雲井於神社に比定した。


もとは、京極の東にあった下出雲寺の鎮守として、仁明天皇の創建。後に、新町近衛に移され、天正17年、秀吉の都市改造で現在地へ。
当初、出雲路にあり、御霊神社の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々とし、天正18年(1590)豊臣秀吉の都市整備により当地に移転してきた。古来より、京都御所の産土神として崇敬され、享保年間(1716〜36)霊元天皇は当社に行幸し、宸筆の祈願文を納めている。
手水舎の井戸は銘水であろうか汲みに来る人が多い。由緒に出雲井上神社の記載は無い。


下御霊神社由緒概要

本殿祭神は、何れも国家の為に御尽しになつた方々でありますが、事に坐して冤罪を御受けになり遂に薨逝せられたのであります。しかるに朝廷においては、後に至つて之を念わせられ、或は尊号を御追称になり、或は位階を御追贈になり、更に清和天皇貞観5年(873)には、勅して大に御霊会を行わしめられました。
この時は吉備聖霊、火雷天神以外の六座であつて、これが当杜の祭神であると伝えられております。当杜は神祇拾遺などによれば、伊豫親王を奉祀したのが本で後に八座即八所御霊として奉祀することとなつたようであります。
かくて朝廷御守護、都民擁護の神として、朝野となく一般に崇敬されているのであります。祭神の中、橘逸勢朝臣が才学に優れて橘秀才と称せられ、又三筆の一として書道の名家でありましたことは、著名なことであります。
相殿霊元天皇は、最も当社を御崇敬になつて両度御参詣あらせられ、御遺勅により、享保17年(1732)11月25日、神主摂津守出雲路直元が命を奉じて謹みて奉祀したので、天中柱皇神と奉称しております。
又当社は下御霊神社と称しておりますが、或は御霊社とも記されているので、維新前の遷宮日時の宣旨には何れも単に御霊社と記してあります。
社地最初は京都の北郊出雲路(御苑内の東北方の辺)でありましたが、後に新町出水の西に移り、天正18年(1590)今の地に鎮座し給うこととなりました。
社殿上古の制は明かではありませんが、近古時代には神殿は賢所御仮殿を御寄附あらせられる御例でありまして、近く年代の明であるのは、宝永7年と寛政2年(1790)とであります。現在の寛政度の御殿で、現存する賢所御殿としては最古のものであります。また表門は仮皇居建礼門を下賜されたものであります。

由緒書



下御霊神社

由緒・沿革
平安時代は国風文化・貴族文化が隆盛した時代である事は皆様よくご存知だと思いますが、一方で災害や疫病の流行が繰り返し起こった不安な時代でもありました。医術や科学が未発達の時代において次々に起こる災いになす術がなく、官民を問わずその恐怖に畏れおののいた事でしょう。
当時の人々はその原因を貴人の怨霊がもたらすものと考え、御霊(ごりょう)としてお祀りをしお慰め申し上げることにより、災禍からお守りいただこうと御霊会(ごりょうえ)を行うようになりました。
初めは京の郊外でそれぞれの御霊が祀られていましたが、後にまとめて八所御霊としてお祀りする事で御神徳が高まると考えられ当社が鎮座されたものと思われます。
怨霊となった貴人とは政治抗争の中で冤罪を被り非業の死を遂げられた方々でございます。
『日本三代実録』という国史の貞観五年(863)五月二十日条に文献上最古の御霊会が記載されております。内容の一部を要約しますと…
 この日神泉苑にて御霊会が行われた。藤原基経らが勅命によって監修し、王侯卿士みなが列席した。霊座六前に祭壇を設けて花果を供えて恭しく祭祀を行い、律師慧達に「金光明経」一部と「般若心経」六巻を読経させ、また雅楽寮に曲を作らせて天皇近侍の児童及び良家の稚児を舞人として大唐高麗を舞わせた。また雑技散楽を競ってその能を尽くさせた。この日神泉苑の四門が開かれ庶民が自由に出入りできた。
 いわゆる御霊とは崇道天皇、伊豫親王、藤原夫人、及び観察使、橘逸勢、文屋宮田麻呂の事である。事に坐して冤罪のまま亡くなった魂は祟りとなった。近年疫病が頻発し多くの者が亡くなった。天下の人々は御霊が原因であると考えた。京畿より始まり地方まで広がり、夏天秋節ごとに御霊会が行われ恒例となった。
 
疫病とは咳逆(新型インフルエンザのようなものか)・天然痘・赤痢などで、医学が未発達であった当時多くの人が亡くなりました。さらには最大の都市であったが故に人口密度に比例して感染の威力も凄まじく全くなす術が無かったでありましょう。それだけに人々は怖れおののき、切なる願いから御霊信仰が広まっていったと考えられます。
朝廷もこの事態を受けて官主導の盛大な御霊会を催したのでありましょう。神泉苑を一般に開放することは誠に特別なことであります。
こののち祇園御霊会、紫野御霊会など盛んに行われていきます。
当社は神泉苑御霊会に祀られた六座に二座加えた八座をお祀りしており八所御霊と申します。
鎮座された年について雑誌などで間違って伝わっておりますが、本当の所は全く不明でありまして、おそらくこの頃祀られたと考えられます。初め愛宕郡出雲郷の下出雲寺のちに廃絶)の境内に鎮座されたと伝わっております。今で申しますと寺町今出川の北辺りと考えられます。後に新町出水の西に移り天正18年(1590)に現在地に鎮座されました。
皇室の御崇敬
古来皇居の御産土神として御尊崇殊に厚く、霊元天皇は修学院御幸の御途次、享保八年四月六日、同十三年二月十一日の両度御輦を社頭に寄せて御祈願あらせられました。又各御代を通じて大小となく宮中に御事があるか又は当社祭事等にはその都度毎に、御代参、御祈祷、御湯立、神楽御奉納などの儀がありました。
なお神社における神事、遷座、修理等に当っては、必ず白銀等御寄附御下賜の事がありました。又各宮の御参拝御供等は絶えずあらせられました。
明治維新以降には、同十年二月一日明治天皇京都御駐輦の御時に勅使堀川侍従を参向せしめて幣帛料を奉り給い、同月十日特に永世保存のため金七百円を御下賜あらせられました。又有栖川宮、閑院宮、久邇宮、賀陽宮、北白川宮を始め奉り皇族の御参拝は度々あらせられ、大正十二年鳳輦奉造に際し賀陽宮より御下賜金があり、本殿以下修理事業に対し、高松宮、閑院宮、賀陽宮より何れも御下賜金がありました。
江戸時代初期の「京童」に
 下御霊 神は人のうやまふにより威をまし 人は神の徳によりて 運をそふ 
 かたじけなくも此の御神は やんごとなき御かたも あまた御氏子にもたせおはします
とありますように御所及び皇族の御殿並びに多くの公卿の邸宅が氏子地域にありました。

公式HP




府社 下御霊神社

本社創建年代詳かならす、出雲寺記に曰ふ「桓武天皇仁明天皇両朝之御勧請」と、もと上出雲寺の御霊堂と共に、下出雲寺の御霊堂として以上の諸神霊を奉祀せしが、後下出雲寺は廃絶して純ら下御霊神社となれり、大日本地名辞書に「京極東大炊御門にあり(下御霊前町)初め下出雲寺に在り、後鷹司(下長者町)新町に移し、(御霊町の名存す)又此に移したる如し、俗談上御霊の分祠にして、仁明帝御宇に勧請すと云ふ、按するに下御霊は桓武の皇子伊豫親王及夫人吉子を祭る、仁明の朝承和6年を創始とす、当時之を下出雲寺に祀祝す、後配祀の数を増加し御霊八座と為す、俗説正しからす、慶長中此に移社し、享保17年更に霊元天皇を配祀す、天明8年災上の後内侍所の除材を下賜せられて再輿す(河田氏説)と見えたり、小右記明月記等に本社祭禮の事見え、上御霊社と共に御霊祭として著名なり、而して足利時代尤も盛なりき、殊に皇居は本社の氏子地なれば、歴伐の崇敬厚かりきといふ、霊元天皇は両度御参拝あらせられ、明治10年侍從をして奉幣。且保存金御下附せらる、宝物には、後陽成天皇の神號、霊元天皇の宸翰、古鏡、出雲寺記等あり、明治6年4月村社と定まり、同13年3月更に郷社となり、同14年6月府社に昇格す、神殿は内侍所旧殿にして。寛政2年の御寄附に係る、其他幣殿、拝殿、神樂所、神饌所、社務所等あり、境内819坪(官有地第一種)廣潤ならすと雖も、清楚にして神境たる趣あり。

明治神社志料





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