『続日本後記』承和元年(834)正月庚午の條に「山城國葛野郡上林地方一町賜伴宿禰等爲祭氏神処」とあり、そのとき創祀されたものと恩われるが、その後全く史上にその名を没した。 現社は中世以降、「住吉社」と呼ばれ、社殿様式や祭神も住吉であり、大伴社と称したことはない。 ところが並河永の『山城志』には「在龍安寺村。今称住吉」とあり、これを受けて明治に社名を住吉大伴社と改名した。『山城志』が何を根処に当住吉社を式内伴氏神社と想定したかは不審である。 創建年は不明だが、平安京遷都に際して大伴氏が大和国から京の都に移った際、その氏神として伴氏神社が祀られたものとされる。 |
住吉大伴神社 1.御祭神 住吉三神 底筒男命 中筒男命 表筒男命 1.例祭日 10月16日 1.神幸祭 10月第三曜日 1.由緒 住吉大伴とは古代の豪族大伴氏を祭る伴氏神社に住吉大神を合わせ祭った事による。 大伴氏ははじめ大和国にあってその勢力を振るっていたが、平安遷都によりこの地に移住し、その先祖の神天押日命を祭ったのである。 「続日本記」には、「承和元年正月賜葛野郡上林郷地方於伴宿禰等為氏神之所」、又「嘉永2年12月授従五位下伴氏神社」とあり、大伴氏は上代の武門の家として物部氏と共に皇居を警衛し禍乱を鎮圧して功を立てた一族であり、後に淳和天皇の御諱の大伴親王をはばかり伴氏と改めたのである。 応天門の変(866)によって伴善男が伊豆に流されてから衰退し伴氏神社の名も世に疎くなっていったものと思われる。 並河永編するところの「山城誌」に「伴氏神社(中略)在龍安寺村今称住吉」とあり、又伴信友の「神名帳考証」には「伴氏神社(中略)「今龍安寺村にありて住吉という」とあり、両書とも古伝によるものであるが当社が伴氏神社と同じ地にありながらいつの世にか住吉神社と称せられるに至ったのは伴氏の衰微と共に葛野郡に山荘を営む徳大寺家の領しるところとなり、その徳大寺家の和歌の神として崇めた住吉三神を祭ったことにより伴氏神社は住吉神社として祭られ、それ以降永く龍安寺、谷口地区の氏神として崇敬されて居た。 昭和17年8月21日許しを得て住吉3神及び大伴祖神を合祀、社名を住吉大伴神社と変更して今日に至る。住吉の神の和と大伴の神の武それぞれ和武合体中庸を保ちて和平の神と崇められている。 境内社 十禅師権現社、斎ノ宮社、小松尾明神社が奉斎されていたが、何時の世か末社小松尾神社のみが残り合祀されて今日に至る。 社頭掲示板 |
住吉大伴神社 『山城名勝志』もまた龍安寺の條につゞけて伴氏神社を掲げ、鎭守住吉明神は龍安寺建立己前の勧請なることを記してゐる。しかし龍安寺は『和名抄』の馬代郷に属し、伴宿禰が氏神を祭るベく賜はつた地上林郷とは別郷であり、住吉神社にもかつて大伴神社と呼ばれたことのなかつたこと、明治8年龍安寺住職並に谷口村戸長連名の左記口上書(京都府総合資料館藏)に明らかで、當時それにもかかはらず、それを式内伴氏神社に擬定しようとして、その社名までも住吉大伴神社と改称せしめたものと察せられる。 式内社調査報告 |