かつては弁財天信仰により、雲ヶ畑弁財天社(弁財天社)、石戸別(いわとわけ)弁財天、雲ヶ畑弁財天ともいわれた。また、雲ヶ畑、中津川地域の産土産神だった。 明治元年神仏分離令後の廃仏毀釈の折に、水神を祀る安芸厳島神社にあやかり、現在の厳島神社と改名されたという。弁財天は廃された。 本社裏山に、二つの石門岩が祀られている。往古この岩に天津石門別雅姫が降臨したという。 岩屋山の降神窟に鎮座していたものを志明院の創建により移されたとする説もある。 |
厳島神社 平安時代中期に編纂された律令の施行細則『延喜式(神名帳)』に「天津石門別稚姫神社」と記載される神社と考えられている。 この地周辺の雲ヶ畑中畑町・中津川町は、平安時代以前からの集落で、平安京造営の際に用材を伐り出した地域であるとも言われ、当社は産土神として信仰されてきた。 祭神の天津石門別稚姫が出現したという石門岩が本社後ろの山麓にあり、約5mの二つの巨岩が15m程離れてそびえ立っている。 祭神・天津石門別稚姫が女神のため、弁財天(知恵や音楽を司る女神)信仰が生じ、明治以前は石門別弁財天、雲ヶ畑弁財天と称したが、明治の初め廃仏毀釈の際、弁財天のままでは廃止されるため厳島神社と改称した。 境内には、中畑町・中津川町の各所にあった宮が集められ、小宮として祀られている。 京都市 社頭掲示板 |