櫟谷社と宗像社の2社が1殿に祀られており、櫟谷社は式内社である。 嵐山・桂川の南岸、渡月橋のそばにある。祭神は櫟谷神(奥津島姫命)であるが、現在は宗像神(市杵島姫命)を併祀しており、二柱を祀る社殿には扉が二つ。 両社とも大堰川(桂川)の水運の安全を祈って祀られたものと思われ、松尾七社の一座に入るものであるが、松尾神社の末社となつた時期は不明。明治10年には松尾大社の摂社となった。 この場所は大堰川の流れが激しい荒瀬から緩やかなトロ場に変わる流勢変化の接点である。水の神・舟の神の坐す聖所として観想されるには、もつともふさわしい場所とおもわれる。 明治期までは祭神が現在と反対であった。 境内から桂川が一望できる。 |
櫟谷宗像神社 ご祭神 奥津島姫命・市杵島姫命 ご由緒 当社は世人古くから俗に嵐山弁天社と称し、奈良時代大宝年間から鎮座されている名社である。平安時代、葛野に鋳銭所(今の造幣局)があり、新しい鋳銭は必ず当社に奉納せられたという。 爾来、来福徳財宝の神として人々の尊崇が厚い。また河海の女神であるところから火難の守護神ともされている。古来、風光明媚の名勝嵐山に訪れる人は必ず詣でた神社である。 大井川しぐるゝ秋の櫟谷 山や嵐の色をかすらむ 藤原為家 時鳥なくや真昼のいちひ谷 一白 社頭掲示板 |
櫟谷宗像神社 小さな社とはいえ、境内に佇めば山紫水明・風光明媚とはここをおいて他にないといえるほどの絶景の地です。昔はそれぞれに独立した社殿をもち、櫟谷神社は『延喜式』神名帳に『松尾末社』と注を付されて載る由緒ある式内社であり、宗像神社は『三大実録』に記載される国史現在社です。もともと櫟谷とは、江戸初期頃までの地名であったといい、すぐ西側の小川の流れる急傾斜の谷に由来するといわれています。珍しい『鏡石』というものがあったのも、この谷であると伝え、 鎌倉時代に崩落して今は跡形もありませんが、神社にとって格別神聖なものであったようです。市杵島姫命は、七福神の弁財天(弁天さん)と習合したことから、『福徳財宝』『技芸上達』『知恵』の神として信仰されています。古代においては葛野の鋳銭所(造幣局)に近く、宗像神社には新貨幣鋳銭の度に奉納されていた関係上、『財運向上』の神として知られています。ご祭神が雅で美しい『姫神』であるため、特に近年では、男女ともに良縁成就のご神徳にあやかろうと圧倒的な人気を誇っています。『恋愛成就と良縁』を祈願する人々、『受験』を控えた学生、『財運』を願う起業家、『芸事』に精進する若人などの参拝が多く、紅葉の頃には狭い境内にも関わらず社頭の鈴の音の止むことのないほど賑わいます。 両姫神は海神(水神)でもあり、古来、『治水』『水上安全』の神としても崇められてきました。奥津島姫命と市杵島姫命の二神は、日本書紀の一書によると異名同じ神とも言えます。字音では、櫟谷・宗像の両神社と、渡月橋を挟んだ対岸の大井神社を合わせて宗像三女神がすべて揃うと伝えられ、両橋詰め附近に鎮座する橋の守り神となっています。丹波に流れ込む川はたくさんありますが、丹波盆地のすべての水を排出させるのは、大堰川(桂川)だけです。そのために、洪水等の被害も多く、治水と水運安全のために神社の真横に古代の秦氏が堰を築きました。ご祭神が堰の守り、水の守りとして意識されていた故でしょう。すぐ南にある法輪寺も、『法』が『水(さんずい)を去る』と書くことから、やはり治水の意味をこめて葛井寺より名を変えたと言われています。 (平安時代に法輪寺と名を変えて)初代住職となった高僧・道昌も、江戸時代初頭に大堰川を改修して名を馳せた角倉了以も秦氏の出身。櫟谷宗像神社の二柱の女神は、その両社を代々奉仕してきた秦氏とその一族とともに、清冽な『川』、偉大な『堰』、優美な橋に深く関わってきたのです。古来より嵐山の雅を愛で、渡月橋に憩う人々が、小さい社ながら必ず詣でたといわれるのもご理解いただけるかと存じます。 由緒書 |
櫟谷神社 櫟谷は伊知比多爾と訓べし〇祭神詳ならず○松尾郷上山田村北櫟谷に在す、(山城志)頭注云、松尾末社、 諸社禁忌云、松尾幣数、櫟谷三本、神主秦頼康注之、』ざれば祭神三座なるベし、 神位 続日本後紀、嘉祥元年11月戊午、奉授山城國無位櫟谷神從五位下、三代実録、貞観10年閏12月10日己亥、授山城國從五位下櫟谷神正五位下、 焼亡 百練抄、仁治2年8月7日壬戌、今夜丑刻、櫟谷宗形両社焼亡、御躰同焼失了、是松尾末社也、 雑事 三代実録、貞観12年11月17日乙丑、近於葛野、鋳銭所宗像櫟谷、五神奉鋳銭所新鋳銭使左馬助從五位下多治真人藤吉、 神社覈録 |