夫荒神社[福王子神社境内社]
ふこうじんじゃ                   . 所在地ボタン 社名ボタン

















   【延喜式神名帳】深川神社 山城国 葛野郡鎮座

   【現社名】夫荒神社
   【住所】京都市右京区宇多野
       北緯35度1分44秒,東経135度42分33秒
   【祭神】不詳
       式内・深川神社の祭神は不明

   【例祭】−−−
   【社格】−−−
   【由緒】

   【関係氏族】−−−
   【鎮座地】鎮座地の変遷不詳
   【祭祀】深川神社とのつながりを示すものはない
       夫荒神社は江戸期「松尾大明神」と称した


仁和寺の西300mの交差点北東角に南向きに鎮座。にぎやかな街中の四つ辻の社。平地。式社表示は無い。朱の春日造本殿がありその左に末社・夫荒社がある。
創祀年代は不詳。社伝では、往古は深川神社と称していたが、応仁の乱で焼失。式内・深川神社の後身であるという。一説に、「福王子」が「深川」の訛りであるといい、また一説に、境内社・夫荒社(フコウ)が「深川」の訛であるという。
フカカハ(平安朝)→フカカウ(室町時代)→フカウ→フコウ(夫荒)と変遷したとされる。
境内社・夫荒社は、洛北の氷室から御所宮中へ氷を運ぶ役夫が当地で力尽き、息絶えたために祀られたものという。
本社福王子神社を深川神社に比定する説と、境内社夫荒神社を比定する説がある。


福王子神社の由来

福王子神社は御室御所(仁和寺の宮)の守護神であり、今から凡そ329年の昔、即ち寛永21年甲申歳徳川三代将軍家光公より御寄進を受け、仁和寺の宮、覚深法親王が仁和寺の再建と同時に造営された一間、社春日造りで斑子女王を祭神とし、女王は第五八代光孝天皇の皇后にあたらせ給ふ、天皇は宝祚の無窮と国家の鎮護を祈らせ給ふ御叡旨により皇城の西北、大内山南麓を景勝の地として伽藍を草創せしめ給ひしが、仁和三年八月御造営半ぱにして俄かに薨去遊され第五九代宇多天皇は先帝の御遺志を結せ奉り造営の工を急がせ給ひ仁和4年今より1089年前金堂の竣工を見るや、年号に因んで寺号を仁和寺宮と給り同年八月十七日、東寺長者真念を導師として母君、斑子女王と共に宇多天皇が祭主となり給ひて、先帝光孝天皇の一周忌を盛大に営み給ふ。
これが仁和寺御所の起りである。斑子女王は自から、お気楽に散策やお買物にも、お出まし遊され特に庶民に親しまれたと記録されており昌泰3年4月1日今より1076年前崩御遊され同月4日、暮野郡頭陀寺に葬られたが、その頭陀寺の陵墓がこの辺であったところから、この地に皇太后斑子女王を奉祀し福王子神社を造営したものと云ひ伝へられている(日本記)。
応仁2年、後世に伝はる応仁の乱が勃発し当時、西軍の兵は京都の西郊に散在して布陣し、特に織物で有名な今の西陣一帯が西軍の陣地の拠点であったところから、西陣と云ふ地名が伝はったと云はれ、仁和寺も又西軍の一根拠をなしていた為、同年9月3日、東軍の内藤備前守元貞は西軍の裏に廻って丹波の国人などを惟して、大江山を打ち越え先づ谷堂、峯ケ堂などを攻め、これを略し応仁2年9月4日今より505年前仁和寺の宮を襲ひ之れに火を放ち、さしもの由緒ある大伽藍も灰燼と化し、誠に措みても余りありと云ぶべきである。
其の後仁和寺は双ケ丘の西麓に移り、ここにて法務を司さとり現在双ケ丘の西麓に古御所と称する地名在り、これ即ち当時の御座所の古迹である。この頃に至り仁和寺の財政は極度に窮し、福王子神社も又仁和寺の守護神だけでは無く庶民に親しまれた斑子女王の御遺徳を偲び広く、地元の御室、宇多野、鳴滝はもとより、祭神斑子女王の御父君にあらせられた桓武天皇の皇子一品大政大臣仲野親王が愛着し山荘を営まれた、文徳天皇の御陵田邑陵の以南、真原丘、田邑郷(中野村)を始め常磐谷村や北嵯峨と共に山田郷に所属していた山越等を含め、この辺に住む民を氏子として毎年10月18日福工子神社の祭礼を催し氏神様として民草に尊敬崇拝され今日に至る。
福王子神社の造営物は古式豊かでその規格を最も厳格に正しく表現した貴重なものであり往時の姿を、今なをその儘保存している所以で文部大臣より福王子神社の左記造営物が昭和48年3月30日付で重要文化財に指定されたものであります。

一、御神殿 一間仕春日造
一、拝殿  徳川初期入母屋造
一、鳥居  明神造り石鳥居としては、古都、京都に於ても二つより無いものの一つであり、徳川初期の代表的な作品
一、練札及石燈寵 式基 造営当時その儘の棟札で記念すべきもの
以上福王子神社と仁和寺御所の古いつながりや、皇室と深い関係にあった由緒深き貴重な福王子神社が、重要文化財に措定されたことを御報告申上げます。

由緒書




福王子神社由来

御本殿 福王子大明神 班子皇后一座 松尾大明神 夫荒神 右京区宇多野に鎮まります福王子神社は第五十八代光孝天皇の皇后班子皇后がおまつりしてあります。
班子皇后は仁和寺の開山祖宇多天皇の御母君であらせらるるところから、古くより仁和寺の鎮守神であります。
この御神殿は寛永21年今から330年前三代将軍徳川家光公と仁和寺法王覚深親王が仁和寺大伽藍と共に新たに御造営された社殿で、それ以前は深川神社(本社末社共)と申上げ平安朝時代からあつた神社で延喜式の社号がございました、が、應仁の戦乱で惜くもすっかり焼失してしまいました。
現在の福王子神社はこの深川神社の後身であり、御再建以来、仁和寺歴代親王の崇敬あつく今日も尚お祭には奉幣の儀が行はれて居ます。
又、御祭神班子皇后は至極お気軽なお気持ちのお方でその御神徳をお慕ひ申上げ、古くより東紙屋川、西廣沢大沢池畔、嵯峨野、南三条辺まで産土の大神として厚く尊崇せられて居ます。
因みにこの地は一説によれば御祭神班子皇后の御陵墓かと言い傳へられて居ます。
末社夫荒神は平安朝時代毎夏洛北氷室より御所宮中へ氷を献上する習はしあり、氷を運ぶ役夫がこの辺で疲労の為力つき息絶ゆ、その霊をまつり、人々の安全を祈願致しました。
昭和48年3月この社殿の技法が何れも古式豊かで、よく神社建築の正しい手法が守られて居るところから、此度文部省より重要文化財に指定せられました。

社頭掲示板



深川神社

深川は布加賀波と読り〇祭神在所等詳ならず
考証に、鳴瀧村福王子社歟、為地主神、福王者深川之訛乎と云るは、信用がたし、山城志に在所未詳と云う、

神社覈録



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