落葉神社を堕川神社にあてる説もあるが、確証的なことはなく未詳社とするのが適切であろう。堕川神社の祭神、由緒など特に伝わっていない。 また落葉神社は大柴神社の論社でもあるが、これも確証的なものではない。 落葉神社はかつて堕川神社と呼ばれ,清滝川の上流である堕川,岩谷川,笠谷川の落ち合う所にあった。 岩戸落葉神社は、小野郷の産土神で、岩戸社と落葉社の二社からなっている。晩秋の強い風が通り過ぎると、銀杏紅葉が境内を一面黄色に埋め尽くし、紅葉の名所でもある。落葉社は小野下野ノ町の氏神で、「源氏物語」の落葉の宮とも重ねて信仰されてきた。清滝川・岩谷川・笠谷川の三川が合流する場所にある。「墜(おち)川神社」が、いつからか「落葉(おちば)神社」と呼ばれるようになったという。 本殿が2棟並んでおり中央大きい方が岩戸神社、向かって右ややこぶりが落葉神社である。 岩戸社を式内社天津石門別稚姫神社に比定する説がある。 |
岩戸落葉神社 御祭神として、天御衣織女稚姫神、弥都波能売神、瀬織津比盗_の三神を祀る。 落葉姫命を御祭神とする御霊社(本殿右)を摂社とする。 当神社の創建年代は不詳乍ら平安時代前期には己に祀られており、岩戸社は元の天津石門別稚姫神社、落葉社は元の堕川神社で共に延喜式内社であったが、元和年間に岩戸社が火災に遭い、落葉社に合祀され岩戸落葉神社となった。 この地、小野郷は清滝川の上流に位置し平安京遷都に当たっては主要な調木地の一つに選ばれ、寛仁の御世には賀茂別雷神社の神領となり、次いで天領(天皇家の御領)となった。因に、源氏物語のモデルとなった落葉姫の名はこの里を閑居の地とされた事に依る。 京都市 社頭掲示板 |
堕川神社 堕川は於知加波と訓べし○祭神在所等詳ならず 山城志云、在小野上下二村界、今称落葉明神、連胤按るに、此説覚束なし、当國の名所旧跡を集めたるもの数多ある中に、此志より以前の書は皆詳ならず、此のち志に從ふものなどは証とし難し、故に連胤土人に問て其偽を究めむとするに、落葉宮を堕川神社といふ事殊て知らず、もとより此落葉宮の社前を流るゝは小野川ど呼て、清瀧川の水源なり、堕川てふ称はあることなしと云り、(小野川は岩屋畑へ流れ出て、加茂川となるも伺名也、)猶次なる堕川御上神社の條考へ合すべし、 神社覈録 |