当社を式内社の簀原(すはら)神社ではないかとする学説がある。 |
由緒 当神社は平安時代後期十二世紀の初め、第74代鳥羽天皇の永久元年(1113年)2月に右大臣源雅実公(後の太政大臣で久我家の祖)が、奈良の春日大明神から天児屋根命を勧請して、火止津目大明神と崇め奉ったことに始まる。藤原氏、源氏の氏神であると共に火止津目の名の如く、久我の郷の発展と郷人達の平和と幸福を守り給う鎮守の神として、お鎮まりになった御神徳高く、由緒の深い神社である。 御遷宮の時には、判官代、右衞門大尉竹内宿称家澄(当社神主渕田家の祖)が奉行し、源具仁親王はじめ、源氏(久我氏)、藤原氏の一族が、牛車三両、手輿数十丁をつらねて社参されたと、旧記に記されている。 その当時の歌「千種の花を手につみいれて、御所へ参らせ、御所へ参らせ。」この歌の通りに、華やかな遷宮当時の祭事をしのぶことができる。 この歌は、近年まで、5月還幸祭の時に、男の児が、五色の造花(花まきといって、今も厄除とされている)で飾った古風牛車にのって、これをうたい、神輿のお供をする、華やかな、郷をあげての、いかにも氏子祭らしい風習が残されていた。一時は種々の事情で、神輿の渡御ができにくい状況にあったが、昭和53年4月に、御旅所が改新築されたのを機として牛車のお供はないが、還幸祭に神輿渡御が復活され、又、平成元年からは、樽に替り立派な子ども神輿がお供することとなった。 中世の祭礼には、猿楽や競馬などの芸能もさかんに行われ、久我の住民はもちろん、近郷の者も集まり盛大をきわめたという。 当社の神輿渡御の神幸祭を「御出」と言っているが、これは、夜行われ、社司に続いて神楽の神子たちが馬にのってともをし、いよいよ神輿の着御の時には松明を持った村中の善男善女老婦にいたるまでが、はちまき、たすきがけで、「セジョロヤ、マジョロ。」とはやしたてたという。 これは千歳、万歳の意味であって、今日もなお、御出の時「センジョロ。」といって、緋縮緬の襷をかけて着かざった女の児が、手に手に松明を持って神輿の先行をつとめるやさしい姿として残されていた。 御鎮座当時の本社は、桂川の西、地境方三十九間、本社、拝殿、神楽殿、御垣の御門に続いて東西に回廊、南に一の鳥居、東に具平宮(村上源氏の祖、久我家の大祖、具平親王をまつる)一、二の鳥居の間には、祭殿、御供殿、並びに久我公の成殿があり、又、高殿の東に遥拝所、及び御垣、又、御祭道の巽に惣門があり、祭殿に並んで、社司の宅があって、久我家との関わりが極めて深い。 神領として本地の近辺五千坪の地があって田中に桧があり、数十丈の藤がかかっていた。この事からも当時の広大さがしのばれる。第75代崇徳天皇の長承3年(1134年)桂川の大洪水によって、社地をおかされ社領三百歩が渕となった。第76代近衛天皇の久寿元年(1154年)火止津目の字を改めて菱妻大明神として祀る。この頃には、親王宣下の時に奉幣使が社参される例であったという。又、本社より巽に惣門があり、奏聞口といい、辰の上刻まで人の通行を禁じていた。これは、南都より毎朝白い鹿が来てこの中を通り卯の刻に南都に帰ったといわれたことによる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
菱妻神社 当神社は平安時代後期12世紀の初め、永久元年(1113)2月、右大臣源雅実(みなもとのまさざね)公が奈良の春日大社から天児屋根命を勧請して、「火止津目(ひしづめ)大明神」と崇め奉ったことに始まります。御遷宮の時には具仁親王をはじめ、源氏(久我家)・藤原氏の一族が牛車三両、手輿数十丁を連ねて社参されたと旧記には伝えられています。 御鎮座当時には、桂川の西に地境方三十九間、本社、拝殿、神楽殿、御垣の御門に続いて東西に廻廊、南に一の鳥居、東に具平宮、一・二の鳥居の間には祭殿、御供殿、並びに久我公の成殿があり、高殿の東に遥拝所および御垣、また、御祭道の巽(南東)に惣門があり、祭殿に並んで神主の宅があったと伝えられています。神領として当地の近辺に五千坪の地があって田中には檜が生え、数十丈の藤がかかっていたと言われています。この事からも当時の広大さがしのばれます。 しかし、当地は鴨川、桂川の洪水の被害をたびたび受け、長承3年(1134)には桂川の大洪水により社領三百歩が渕となるほどでした。そこで、久寿元年(1154)「火止津目」の字を、水徳があるとして「菱妻」と改め現在に至っています。 この頃には、親王宣下の時に奉幣使が社参される例であったと言います。また、本社より巽の惣門を奏聞口と言い、辰の上刻(午前7時過ぎ)まで人の通行を禁じていました。これは南都より毎朝白い鹿が来てこの中を通り、卯の刻(午前6時頃)に南都に帰ったと言われたことによっています。 なお、当社を式内社の簀原(すはら)神社ではないかとする学説もあります。 公式HP |
菱妻神社 当神社は平安時代十二世紀の初め、鳥羽天皇の永久元年(1113年)2月に、久我家の祖右大臣源雅実(みなもとのまさざね)公が、奈良の春日大明神から、藤原氏の祖神、天児屋根命(あめのこやねのみこと)を勧請し、源氏の守護神として火止津目(ひしづめ)大明神を崇め奉ったことに始まる。 華(はな)やかな御遷(せん)宮が行はれたことは、 千種(ちくさ)の花を 手につみいれて 御所へ参らせ 御所へ参らせ と、はやされた当時の古歌からも偲ばれる。 御鎮座当時は、広大な神領社殿があったが、桂川の大洪水におかされ久寿元年(1154年)には字を菱妻(ひしづま)大明神と改められ、以来今日まで久我の郷の鎮守の杜として、又学問運動上達の神として御神徳が高い。 社頭掲示板 |