久我神社
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   【延喜式神名帳】 久何神社 山城国 乙訓郡鎮座

   【現社名】久我神社
   【住所】京都府京都市伏見区久我森の宮町8-1
       北緯34度56分25秒,東経135度43分49秒
   【祭神】建角身命 玉依比売命 別雷神
   【例祭】4月第1日曜日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】長岡京の艮角の守護神として鎭座したとある
       貞観元年正月27日正六位上から從五位下に進階
       貞観8年8月14日正六位上から從五位下
       貞観18年閏4月7日從五位上に進階

   【関係氏族】山背久我国造として、北山城一帯に蟠踞した久我氏
   【祭祀】久我氏の祖神を祀ったか?
   【祭祀】江戸時代は「森大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造 桧皮葺
       拝殿・神饌所・手水舎

   【境内社】春日神社・稻荷神社・八幡宮・天満宮・清正社・歯神社(祭神天神立命)

長岡京遷都に際し、京の艮を祀った。延暦3年(784四)頃、王城の艮角の守護神として御鎮座になった。
山背久我国造として北山城一帯に蟠踞した久我氏の祖神輿我萬代継神を祀った本市における最も古い神社である。


久我神社略史

神社の旧記によれば、八世紀末、平安遷都に先立ち、桓武天皇が山背長岡に遷都された延暦3年(784)頃、王城の艮角の守護神として御鎮座になった(秘伝神書抄)と伝えられ、以来千二百年の星霜を経た延喜式内社であり、久何神社とも号する。
一説には当社は往古、山背久我国造として、北山城一帯に蟠踞した久我氏の祖神、興我萬代継神(三代実録)を祀った、本市における最も古い神社の一つであり、久我氏の衰頽後、賀茂氏がこれに代わってその始神を祀ったのではないか。また、他の説では、起源は古く、平安・長岡遷都以前に遡り、「山城国風土記」逸文に云う賀茂氏が大和から木津川を経て、この久我国(葛野乙訓にわたる地方の古称)の伏見地方に居をすえ、祖神を祀ったのが、当久我神社であり、更に賀茂川を北上して今の賀茂の地に鎮まったと考えられる。
これらの事から、いずれにしても、歴史的に頗る深い由緒と信仰の跡を偲ぶことができるのである。尚、興味あることとして当地方の西の方(乙訓座火雷神)から丹塗矢が当社(玉依比売命)にとんできて、やがて別雷神が生まれられたとも、此の里では伝承されている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




由緒書

御祭神
建角身命
玉依比売命
別雷神
この三桂は、賀茂の両社と御同身である。
御由緒
当社は、八世紀末平安遷都に先立ち桓武天皇が山背長岡に遷都された延暦3年(783)頃、都の艮角(北東)の守護神として御鎮座になったと伝えられ、以来千二百有余年の星霜を経た延喜式内社である。
往古、山背久我国造として北山城一帯に蟠踞した久我氏の祖神輿我萬代継神を祀った本市における最も古い神社の一つであり、久我氏の衰退後賀茂氏がこれに代わってその始神を祀ったのではないかとも、あるいは起源は古く平安・長岡遷都以前に遡り、『山城国風十記』逸文に云う賀茂氏が大和から木津川を経てこの久我国(高野・乙訓にわたる地方の古称)の伏見地方に居をすえ祖神を祀ったのが当久我神社であり、更に賀茂川を北上して今の賀茂の地に鎮まったのではないか、とも考えられている。
これらの事から歴史的に頗る深い由緒と信仰の跡を偲ぶことができるのである。また久我の里では、当地の西の方(乙訓座火雷神)から丹塗矢が当社(玉依比売命)に飛んできて、やがて別雷神がお生まれになったとも伝えられている。
延喜式の神名張には「久何神社」と記され、幣帛に預かったことが知られる。緑豊かな神社の森は、多くの歌に「久我の杜」として泳まれてきた。珍しいのは社僧のあったことで、「願応寺に住職社僧となり祭祀を司り寛永生年(1633)蓮住院松庵卒す」と旧記に書かれている。去る昭和44年に社務所が改新築され、更に昭和59年(1984)には御鎮座千二百年を記念する祭が盛大に行われた。

由緒書



由緒

当社は、八世紀末平安遷都に先立ち桓武天皇が山背長岡に遷都された頃(784年延暦3年)、王城の艮角の守護神として御鎮座になったものと伝えられる由緒深い延喜式内社である。
別雷神・建角身命・玉依比売命の三柱を御祭神とし賀茂両社と胴体であり、古来鴨森大明神とも号し久我の郷人をはじめ諸人の平和安全方除け発展を守護する神として御神徳が厚い。
また久我の杜といって久我の渡りと共に歌にもよまれている。

社頭掲示板



久何神社

久何は古賀と訓べし(比保古に、兼永卿本に点せりと云り)○祭神久我直祖神歟○下久我村に在す、今森明神と称すい、(山城志)例祭4月中巳日、〇旧事紀、(天神本紀)天神立命、山背、久我直等祖、」また天世手命、久我直等祖、
祭事記に、祭神賀茂建角身命(事見愛宕郡久我社下)と云り、連胤按るに、愛宕郡久我神社は建角身命なるべし、頭注に志かいひ、鴨社司祐之卿も伺じ説なれば從ふべしといヘども、当社をも同神とは定めがたし、恐らくは久我直の祖神なるべし、
氏人
三代実録、元慶2年12月、山城國愛宕郡小野郷人、勘解由次官從五位下小野朝臣当岑、改本居、貫隷左京職、
神位
三代実録、貞観8年8月14日丙戌、授山城国正六位上興我萬代継神從五位下、同16年閏4月7日乙丑、授山城國從五位下興我萬代継神從五位上、
連胤云、此神位は祭事記、山城志等に拠て爰に載す、比保古別社とす、猶考ふべし、

神社覈録



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