綾戸国中神社
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   【延喜式神名帳】国中神社 山城国 乙訓郡鎮座 
   【延喜式神名帳】大井神社 山城国 乙訓郡鎮座 
   【延喜式神名帳】茨田神社 山城国 乙訓郡鎮座 
          (旧地)国中神社【旧地】

   【現社名】綾戸国中神社
   【住所】京都府京都市南区久世上久世町446,773
       北緯34度57分49秒,東経135度42分57秒
   【祭神】大綾津日神 大直日神 神直日神 素盞嗚尊
       調査報告は祭神素盞鳴命とし、これが国中神社の祭神か

   【例祭】5月第2日曜日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】明治6年(1873)村社
   【関係氏族】
   【鎮座地】北方約500mの藏王堂(光福寺)の地にあつた
        何時の頃か綾戸神社に合祀された
        昭和39年の新幹線開通で同境内内で移転

   【祭祀対象】
   【祭祀】『山城志』に「在所未詳」、『神社要録』に「祭神在所等詳ならず」とある
        一時は不明社となっていたと思われる

   【公式HP】 綾戸国中神社
   【社殿】本殿流造 桧皮葺
       拝殿・幣殿・神饌所

   【境内社】

『山城志』に「在所未詳」、『神社覈録』に「祭神在所等詳ならず」とあるように、近世には在所不明。
昔は綾戸宮と国中宮の二社に別れていたが、現在は一社殿とし、向かって左に綾戸宮、右に国中宮が祀られている。
国中神社はもともと北方約500mの藏王堂(光幅寺)の地にあつたが、何時の頃か綾戸神社に合祠されたという。
夏の祇園祭には稚児が駒形の御神体を胸に奉持して(駒形稚児)白馬にのって、八坂神社に至る。ここから祇園祭が始まる。
桂川の西岸、久世橋の西にあり、境内南は道路に面しており、西側は新幹線の高架になっている。
綾戸神社を「山城國乙訓郡 茨田神社」あるいは「大井神社」とする説もある。


綾戸宮と國中宮

昔は綾戸宮と國中(くなか)宮の二社に別れていたが、現在は一社殿とし、向かって左の御扉に綾戸宮、右の御扉に國中宮をお祀りしてある。
大綾津日神、大直日神、神直日神を御祭神とする綾戸宮は、第26代継躰天皇15年に綾戸大明神として三柱の神を御勧請され、62代村上天皇天暦9年に綾戸宮と改められ、社号の額も70代後冷泉帝の御震筆によると伝えられている。戦国の兵火にあい宝器、旧記は焼失してしまったが上久世の里の産土神として古より氏子が崇拝するところである。
素戔鳴神を御祭神とする國中宮は、神代の頃、午頭天皇=素戔鳴尊が山城の地、西の岡訓世の郷が一面湖水のとき、天から降り給い、水を切り流し国となしその中心とおぼしき所に符を遣わし給うた。その符とは素戔鳴尊の愛馬、天幸駒の頭を自ら彫刻して、新羅に渡海の前に尊の形見として遣わし給うたのである。この形見=馬の頭が國中宮の御神体として祀られている。夏の祇園祭には稚児が駒形の御神体を胸に奉持して(駒形稚児)乗馬で供奉する。
社殿は昔は西向きの二社殿であったが昭和9年の室戸台風で倒壊したため約20m北の地に南向きの一社殿・二扉として昭和11年秋に新築。その後、拝殿、神饌所等を増築して神社としての形態を整えてきたところ、昭和39年の東海道新幹線通過のためやむなく境内地、社殿等を東に移転し現在に至っている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




綾戸国中神社

昔は綾戸宮と國中宮の二社であったが、現在では合祀され、左に綾戸宮が、右に國中宮が鎮座されている。
御祭神 綾戸宮, 大綾津日神, 大直日神, 神直日神, 國中宮, 素盞鳴神
例祭日 5月巳日(現在では5月第二日曜)
 社伝によれば、第26代継体天皇の御代には大堰川(桂川)七瀬の祓神として大井社と称し第62代村上天皇天暦9年(965年)綾戸社に改称され、社号の額は第70代後冷泉帝の御震筆と伝えられている。
 また、國中社は本来蔵王の杜(現光福寺蔵王堂)に社地があって中世には牛頭天皇社とも呼ばれていた。古くには久世郷全体の郷社であったと推定される。戦国時代、國中社が綾戸社の境内に移され、以来綾戸國中神社と称するようになったのである。
 社殿は昔は西向きの二社殿であったが昭和9年の室戸台風によって倒壊したため約20m北の地に神社本来である南向きの一社殿二扉の本殿と拝所を昭和11年秋に再建、その後拝殿、神饌所が造営され神社としての形態を整えてきた。しかし、昭和39年に東海道新幹線の開通のため社殿等を東に移転し現在の形態となり神宮鳥居を備えた地域の氏神として信仰を得、また後述の所以で馬関係者からも崇敬されている。
 綾戸國中神社には全国でも唯一とされる事が二つある。國中社の御神体が駒形であること。また新幹線開通のため移転を余議なくされたことである。

公式HP



綾戸国中神社

元は、綾戸宮と國中宮の二社であったが、現在では合紀されており、左が綾戸宮、右が國中宮である。
綾戸宮は大綾津日神、大直日神、神直日神、國中宮は素盞鳴神を御祭神とする。
社伝によれば、綾戸社は継体天皇15年(521)に大堰川(桂川)七瀬の祓神として、大井社と称して創建された、その後、天暦9年(965)綾戸社に改称された。社号の額は第70代後冷泉天皇の御震筆と伝えられている。
國中社は本来蔵王社(現蔵王堂光福寺)に社地があって、中世には牛頭天王社とも呼ばれており、古くには久世郷全体の郷社であったと推定される、戦国時代、國中社が綾戸社の境内に移され、以来、綾戸國中神社と称するようになった。
日本三大祭のひとつである祇園祭に欠かせないものとして、綾戸國中神社の「久世駒形稚児」がある。
この「駒形稚児」と祇園祭との関係は、「國中社は素盞嗚尊の荒御魂なり、八坂郷祇園社は素盞嗚尊の和御魂なり。依って一体にして二神、二神にして一体で神秘の極みなり。」と古文書に記され、「御神幸の7月17日に訓世の駒形稚児の到着なくば、御神輿は八坂神社から一歩も動かすことならぬ、若し此の駒故なくしてお滞りあるときは、必ず疫病流行し大いに悩む。」とも伝えられている。
駒形を奉持することで稚児は神そのものとされ、神幸祭、還幸祭では中御座神輿の先導をつとめる。
京都市

社頭掲示板



國中神社

國中は久爾奈可と訓べし〇祭神在所等詳ならず
連胤伝、今西國の官道山崎駅の東、五位川の辺、路傍に自然石を置て、其上に國中神社と彫たる石抗を建たり、こは此五十年ばかり以前に、山崎の社中より建たるものにて、旧地にあらず、此外郡中の社號を記して同じく建てるもあり、其類なりと土人に聞たり、
類社
河内國讃良郡國中神社、越前國今立郡國中神社二座、
連胤按るに、各国祭神詳ならず、猶考ふべし、
氏人
続日本紀、神護景雲2年11月乙亥、從四位下國中連公麻呂為但馬員外介、

神社覈録



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