走田神社
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   【現社名】走田神社
   【住所】京都府長岡京市奥海印寺走田 3
       北緯34度55分38秒,東経135度40分34秒
   【祭神】天津児屋根命
   【例祭】10月21日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】明治6年(1873)6月村社
       明治10年6月 社号を改て延喜式内走田神社に確定

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】「走田」は初穂をつくる田をいい、早稲田の守り神
   【祭祀】かつては「妙見社」といわれていた
   【社殿】本殿入母屋造、瓦葺
       拝殿・社務所・仮殿・手洗所

   【境内社】

早稲米の守護神として信仰されている。かつては「妙見社」といわれていたが、明治以降正式に「走田神社」と呼ばれるようになった。
「走田」は初穂をつくる田をいい、早稲田の守り神であった。
小山の中腹に鎮座し、石段は百を越す登りである。
正月13日には弓講が行われる。羽織袴に身を包んだ2人の射手が、合わせて12本の矢を直径約1.3メートルの的に向かって射る。12本の矢は睦月から師走までの月を表し、矢が的の中央の黒点に命中すれば、その月は豊作になるといわれている。


由緒

吉田本、金剛寺本とも走田神社。妙見社とも稱せられていた。
創建年代不詳。古くから妙見菩薩が合祀されてゐたが、明治の神佛分離の折り、これは海印寺寂照院に移された。明治16年の明細帳に記された由緒書では「鎮座傳記不詳。御局上ヶ知神社。除地妙見社930年餘以前責字年中勤請之由申傳。造立之年數不分明。社地東西拾五間南北九間、外ニ境内有之旨元禄5申年ニ取調書上ヶ候。尚慶應4辰年3月右之趣書上ヶ候。後去ル明治10年6月ニ至リ社號改テ延喜式内走田神社ニ確定セラル前明治6年6月村社ニ公定セラル」となつている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




走田神社

奥海印寺・長法寺両村の産土神。式内社で「延喜式」にのる乙訓十九坐の一つである。祭神は天児屋根命・武甕槌神・経津主神・姫大神の春日四神を祀る。
かっては「妙見社」といわれ寂照院の鎮守であったが、明治以降、正式に「走田神社」と呼ばれるようになった。社名の「走田」は初穂をつくる田をさし、早稲田の守護神であっただろう。なお、正月13日には御千度詣りや弓講が行われる。また、明治初め頃まで同じ祭神を祀る小倉神社の神輿がこの社まで渡御し、その道がまだ古老達によって語り継がれている。

社頭掲示板



走田神社

平安時代のはじめの頃の話。嵯峨天皇の命を受け、鎮護国家のための大寺院の建立地を捜し求めていた弘法大師の高弟・道雄僧都は、夢の中に現れた童子より長岡京の西山の地に適地があるとの啓示を受けます。夢に従ってこの地を訪れた道雄僧都の前に姿を現した童子は、「吾はこの山を守護する妙見菩薩なり。寺院建立の暁には千手観音を本尊に崇め、吾を走田神社に合祀せよ」というお告げを残したといいます。
やがてこのお告げにしたがってこの地に築かれた大寺院が「海印寺」ですが、残念ながら応仁の乱で焼失してしまい、現在は塔頭であった寂照院のみが残っています。海印寺建立の前からこの地に鎮座していたといわれる走田神社は奥海印寺村と長法寺村の産土神として村人たちの崇敬を集めていました。海印寺が建立された際、走田神社は寂照院の鎮守社とされ、お告げの通り妙見菩薩が合祀されたそうです。その後、明治維新以降の神仏分離令にともなって妙見菩薩像は寂照院に遷され、社号も正式に「走田神社」と呼ばれるようになりました。

http://blog.goo.ne.jp/kimmy_v-kobe/e/03b1cb9e5554f2cda84dac0f645a2c72



走田神社

走田は波世多と訓べし(旧訓ハシリダとあるは、文字の上に泥めるなるへし、)○祭神詳ならず○奥海印寺村山林の中に在す、(巡行志)今妙見と称す、例祭9月21日、(土人云)此社辺に今も字走田といふ所あれば、正しかるべし、山城志に、在長法寺村といヘど、此村は奥海印寺の北に隣りたるのみ、神社は奥海印寺村領なるよし、是亦土人に聞り、

神社覈録



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