角宮神社
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   【延喜式神名帳】乙訓坐大雷神社(名神大 月次/新嘗) 山城国 乙訓郡鎮座

   【現社名】角宮神社
   【住所】京都府長岡京市井ノ内南内畑35
       北緯34度56分31秒,東経135度41分20秒
   【祭神】火雷神 (配祀)玉依姫命 建角身命 活目入彦五十狹茅尊
   【例祭】5月1日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】大宝2年(702)7月8日奉幣
       天平7年(735)4月10日には神封五戸が与えられる
       宝亀5年(774)6月5日 奉幣
       延暦3年(784)11月20日に長岡京遷都にともない從五位下
       延暦4年(785)桓武天皇行幸奉幣
       弘仁13年(813)8月3日に従五位下 『日本紀略』
       承和7年(840)4月29日に甘雨所願と風防止のため奉幣『続日本後紀』
       嘉祥3年(850)7月11日に正五位下『文徳實録』
       貞観元年(859)正月27日に從四位下 『三代實録』
       承久の変(1221)で灰燼に帰し容易に復興を許されなかった
       文明16年(1484)今の地に再興
       文化3年(1806)3月関白鷹司家乙訓大明神の額を奉納
       明治6年(1873)村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】旧社地は井ノ内の西部(宮山)にあった
        文明16年(1484)今の地に再興

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代には乙訓神、角宮と称していた
   【社殿】本殿神明造、瓦葺
       拝殿・神饌所・絵馬堂・社務所

   【境内社】春日神社・太神宮・八幡宮・稻荷神社・向日神社

市街地の中にある小社。境内を覆う楠の巨樹があり遠くからもよく見える。
鎮座地の西約500mに宮山の地名があり、旧社地はこの辺りにあったのかもしれないが、跡地の確認不能
承久3年(1221年)の承久の乱で焼失し、長らく復興されないままになっていた。文明16年(1484年)、現在地に再興された


角宮神社

式内社。乙訓坐火雷神社、略して乙訓社とも言う。祭神は本殿に向かって左に主神火雷神と玉依姫、建角身命、活目入彦五十狭茅尊の四神を、右に春日神(三神)を祀る。
乙訓坐火雷神は玉依姫の夫神で「山城風土記逸文」の賀茂伝説に丹塗矢の古事として見え、その御子別雷神を祭神とする上賀茂社玉依姫と建角身命を祭神とする下賀茂社と共に国の大弊にあずかる名神大社としての社格の高い社であった。
初見は「続日本紀」の大宝2年(702)の条で、殊に祈雨神として平安中期までは国史に度々出ている。承久の変(1221)で灰燼に帰し容易に復興を許されなかった。旧社地は井ノ内の西部(宮山)にあったが、文明16年(1484)今の地に再興され、井ノ内の産土神として祀られている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




角宮神社

「乙訓坐火雷神社」と角宮神社
井ノ内にある角宮神社は、江戸時代には「乙訓社」「乙訓大明神」とも呼ばれ、村から選ばれた宮年寄によってまつられてきました。 角宮神社は、江戸時代より向日神社(向日市)とともに延喜式内社「乙訓坐火雷神社」の論社となっていました。「乙訓坐火雷神」は、祈雨に効験のある神として広く知られ、大宝2(702)年に官社となり、長岡京遷都にあたっては従五位下の神階が与えられるとともに修理が行われています。平安京遷都後も祈雨・止雨の奉幣や神階昇進の記事が国史にしばしば見られます。

長岡京市 展示コーナーだより 第 41号



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