市街地の中にある小社。境内を覆う楠の巨樹があり遠くからもよく見える。 鎮座地の西約500mに宮山の地名があり、旧社地はこの辺りにあったのかもしれないが、跡地の確認不能 承久3年(1221年)の承久の乱で焼失し、長らく復興されないままになっていた。文明16年(1484年)、現在地に再興された |
角宮神社 式内社。乙訓坐火雷神社、略して乙訓社とも言う。祭神は本殿に向かって左に主神火雷神と玉依姫、建角身命、活目入彦五十狭茅尊の四神を、右に春日神(三神)を祀る。 乙訓坐火雷神は玉依姫の夫神で「山城風土記逸文」の賀茂伝説に丹塗矢の古事として見え、その御子別雷神を祭神とする上賀茂社玉依姫と建角身命を祭神とする下賀茂社と共に国の大弊にあずかる名神大社としての社格の高い社であった。 初見は「続日本紀」の大宝2年(702)の条で、殊に祈雨神として平安中期までは国史に度々出ている。承久の変(1221)で灰燼に帰し容易に復興を許されなかった。旧社地は井ノ内の西部(宮山)にあったが、文明16年(1484)今の地に再興され、井ノ内の産土神として祀られている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
角宮神社 「乙訓坐火雷神社」と角宮神社 井ノ内にある角宮神社は、江戸時代には「乙訓社」「乙訓大明神」とも呼ばれ、村から選ばれた宮年寄によってまつられてきました。 角宮神社は、江戸時代より向日神社(向日市)とともに延喜式内社「乙訓坐火雷神社」の論社となっていました。「乙訓坐火雷神」は、祈雨に効験のある神として広く知られ、大宝2(702)年に官社となり、長岡京遷都にあたっては従五位下の神階が与えられるとともに修理が行われています。平安京遷都後も祈雨・止雨の奉幣や神階昇進の記事が国史にしばしば見られます。 長岡京市 展示コーナーだより 第 41号 |