三十三間山(標高842m)の西麓に成願寺の集落がありその北方、少し離れた所に闇見神社が鎮座。
若狭耳別の氏人によつて祀られたものと思われる。 |
闇見神社 一、 鎮座地 福井県三方郡三方町成願寺(字御手洗水)第12号ノ7番地 一、 祭神 沙本之大闇見戸売命 菅原道真公 合祀ノ神々 一、 由緒 若狭国神明帳ニ「正五位闇見明神」トアリ若狭国誌ニ「成願寺ニ在リ今天神ト称ス弘化三丙午年七月三日深夜民家ヨリ出火ノ際当社類焼社殿書類悉ク焼失現本殿ハ安政四年再建セルモノナリ伴信友著「神社私考」ニ第九代開花天皇ノ皇子日子坐王(若狭耳別ノ祖)ノ妃ニシテ室毘古王(現美浜町宮代鎮座弥美神社ノ御祭神)ノ御母沙本之大闇見戸賣ヲ祀ル」トアリ現鳥居ハ旧藩主酒井忠勝公ノ奉献ナリ 一、 合祀神社 明治42年7月23日左記神社ノ合祀ヲ許可セラル 諏訪神社 元上野諏訪森ニ鎮座 愛宕神社 元成願寺大羽日ニ鎮座 住吉神社 元倉見庄法奄ニ鎮座 日吉神社 元白屋山王ニ鎮座 加茂神社 元白屋堂田ニ鎮座 熊野神社 元白屋風呂ノ上ニ鎮座 一、 例大祭 4月5日 一、 境内 1064坪 一、 建物 本 殿 屋根銅板葺替 平成3年3月30日竣工 拝 殿 大正3年3月26日竣工 社務所 昭和42年11月23日移転改築 旧社務所ヲ参拝者休憩所ニ改築 手水舎 平成3年3月30日改築 御由緒掲示所 平成3年10月30日竣工 社頭掲示板 |
伝承 近江・越前・若狭三国に聳える日話の嶺という山が在った。山の東の中腹に大きな池があり、大蛇が住んでおり、万民を苦しめていた。 垂仁天皇の御代、素盞嗚尊と奇稲田姫神の化身の二老人が現われ、この大蛇を退治し、その嶺を投げて落ちた所に岩剣を祀った。今津町酒波の日置神社を祀った。 退治された大蛇は2つに別れ、一つは美濃、一つは若狭へと飛んで行った。若狭に落ちた地が、現在の闇見神社であり、闇見は、大蛇が落ちた時に闇になったからという。 |
闇見神社 『延喜式神名帳』の若狭国の項に「闇見神社」。 『若狭国神名帳』に「正五位闇見神社」。 『若狭国志』に「里民伝え云う。創建以後、一千年余に及ぶ」等々と記してある。 『神社私考』に「天神社二座あえいて、平生には倉見の天神」と称し、又、「倉見の明神と称へるにてもまぎれなし、祭神二座ます事は、一座は素より祭り来れる闇見の神坐し、今一座は天滿天神を後に祀れるなるべし」と伴信友は説いている。 当社の祭礼日は、旧暦の3月5日(現在は4月5日)で、倉見・白屋・成願寺・上野・岩屋・井崎・黒田の一部の村民献供祭典が執行され、又、頭渡しの儀・王の舞・獅子舞・地搗の神事等があって、神輿渡御が行われる。 弘化3年(1846)に付近の民家から出火し、闇見神社も類焼し古文書など焼失したが、難を免れたという。 『闇見神社発端之事』に「嶺の中腹の大池に大蛇が住んでいて萬民に災を与えていた。第11代垂仁天皇の御宇甲午の年に素盞嗚尊・奇稲田神の化身の2老人が大蛇を退治された時、大蛇が2つになって飛び上り、1つは美濃国に、1つは若狭の山辺に落ちて闇見の神になった」と記している。 正保2年(1645)藩主酒井忠勝公が華表(鳥居)を造立された。 明治2年に郷社に列せられ、大正元年8月26日に神饌幣帛料供進神社に指定された。 福井県神社庁 |
闇見神社例祭神事 闇見神社は、倉見庄(くらみのしょう)の鎮守社として、三十三間山の麓に鎮座する式内社で、若狭の耳別(みみわけ)の祖とされる室毘古王(むろひこのみこ)の母、沙本之大闇戸売命(さほのおおくらみとめのみこと)と菅原道真をまつる古社である。 四月五日の例祭行事は、昭和37年に県無形民俗文化財に指定されている。 その昔、宮座組織によって例祭神事が運営されていたが、現在では、明治37年改正の規約に基づく当屋制によって神事を営んでいる。当屋は、毎年一区一交代制で、倉見・白屋は3年に一度、岩屋・成願寺・上野は7年に一度勤める。 例祭前日の当屋行事として、幣裁ち・当屋祈祷・王の舞のお仕上げ等を行う。当日は、当屋における村立ちの儀を経て、災祓幣(さいはらいべい)を先頭に行列を整えて神社に向かい、参道入り口の広場で「当渡し(とわたし)の儀」(当屋交替の儀式)を行い、王の舞、獅子舞・大御幣搗き(おおごへいつき)・神輿御御(とぎょ)等が続く。これらの行事の圧巻は大御幣搗きであろう。当渡しを終えた大御幣の四方に荒縄をくくり付け、激しく地面に叩きつけながら社頭に向かうのであるが、長さ6尺、4寸角の松の生木づくりの御幣を木っ端微塵になるまで搗きまくる特殊な神事で、奇祭である。 若狭町観光情報 Discover Wakasa |