大宝元年に当郡の湖辺に奇瑞があり、時の国造がその由を朝廷に報告し、日向の国鵜戸山から神霊を船にうつして迎えた。湖辺に御着船後この地が日向国坂山の景色に似いるので日向浦と名付けて奉斎した。 当社の創祀には、二説あり、@日向浦に垂迹→宇波西神社(旧地) A初め金向山の上野谷にあったレイクヒルズ美方病院のある丘という。 『延喜式神名帳』では、北陸道の352座の神社の中で唯一、月次新嘗の幣帛に預る神社となっている。 |
宇波西神社 宇波西神社案内 御祭神 鵜草葺不合命(人皇第一代神武天皇の御父君)と伝えられ御母豊玉姫命が海辺で鵜の羽などを葺草にまぜて産殿の屋根を葺かせられそれがまだできあがらないうちに御安産あらせられましたので右のような御案を奉られたらしく古来から漁猟又安産の守護神としてあつい崇敬をうけさせられています。 延喜式の神名帳によりますと 宇波西神社 名神大 月次新嘗 ときされていまして月次・新嘗の祭と祈年祭(五穀豊穣祈願祭)の案上の官幣にあずかられましたのは北陸道七ヶ国352座の御祭神中ただこのお社だけという得難い由緒を有せられています。 古伝によりますと文武天皇の大宝元年日向浦に垂迹あって同年3月8日に上野谷(現国立療養所官舎付近という)に遷らせられ104年後の大同元年3月8日更に現在の地に御鎮座あらせられたことになっています。大宝元年から1300年になります。 建武・元亀年間再度兵火の為に炎上、現社殿は嘉永4年に造営されたものです。 御例祭は御鎮座の日にちなんで今は一ヶ月後の4月8日に行われています。 御神木の大杉 周囲約17尺、推定樹齢830年、先端は火災の飛び火によって炎上しています。 平成13年5月吉日 書き改む 社頭掲示板 |
宇波西神社 御祭神うがやふきあえずの命(海漁と安産の守神)御鎮座と沿革文武天皇の大宝元年(昭和51年で1275年前)3月8日、日向で初めておまつりしましたが程なく今の療養所のある上野谷におうつりになりました千余年前にできた延喜式の神名帳によりますと当時北陸道七ヶ国にまつられていた三百五十二座の御祭神の中で年に三回(祈年祭月次祭6月と12月新嘗祭)朝廷から幣帛を奉られたのは此の社だけであり当時の名神大社でありました建武元亀年間兵火の為再度焼失天正年間今富の城主浅野長政が社殿を造営し参道を寄進しました国主酒井家から累代修理改築など篤い崇敬が棒ぜられ現在の社殿は嘉永4年の造営です御例祭4月8日午前2時から氏子各部落の古式豊かな献饌奉幣が相つぎ正午からは県の無形文化財である王の舞、獅子舞、田楽舞、等古雅で優美な祭礼が奉納され おわって子供のみこしの御渡りがあります。 社頭掲示板 |
宇波西神社 宇波西さんのあらまし 国定公園若狭湾の勝景は世に定評があるが 若狭なるみかたの海の浜清みいゆきかへらひ見れと飽かぬかも と万葉の歌びとがうたいのこしてくれた三方五湖と日本海の眺めは自然美の尤もなるものであろう。宇波西さんはこうした湖畔に散在する十余の里々を氏子区域に、ふるさとの鎮めとして千二百余年にわたって人々の崇敬をうけられている大社である。 延喜式(約千年前の書)の神名帳には 宇波西神社(名神大・月次・新嘗) と記され、北陸道唯一の大社でもあった。 例祭神は神武天皇の御父君うがやふきあえずのみことと伝えられ、最初は現在の美浜町日向に祀られていたのが文武天皇の大宝元年3月8日金向山の麓上野谷に遷座され、更に106年の後平城天皇の大同元年3月8日現社地に鎮まられたことになっていて、大宝元年から平成10年までで1297年になる。社家に伝える記録によると、日向浦に奉斎したのは大宝元年に当郡の湖辺に奇瑞のことがあり、時の国造がその由を朝廷に申し、日向の国鵜戸山から神霊をお船にうつし奉り出神某なるもの御太刀を携えて従い湖辺に御着船、初めて仮に奉斎したとのことであり、又神託あって「此の地日向国坂山の景色に似たり。因ってここを日向浦と名づく云々」とも書かれている。 九州鵜戸神宮の例祭神はうがやふきあえずのみことであり、当郡日向浦の言葉は当地方特有の訛りで今なお語られ、それが日向国の漁村の言葉そのままとも去われている。又遷座祭のある場合、今も神霊をお船に遷して運行される慣例であり、4月8日の例祭には出神家の当主が太刀を奉じて先頭に立ち、区民と共に参拝の重儀が行われる。彼此考え合わせると御鎮座の様子がほぼ伺える様である。安産の守神、海猟の神として名高く篤い崇敬と信仰を寄せられている。例祭の祭礼は国選択の無形民族文化財の指定を受けている。 例祭 4月に入ると氏子各部落でそれぞれ古式ながらの神事が斎行される。所謂お祭りは4月8日であるがこの各神事の集積されたものが8日に花と咲くのであり、区域が広汎でスケールが大きい為一々見て回るのに十数年かかるとまでいわれている。8日には午前2時頃から各部落のお供えが吉例のままに相ついで10時に及ぶのであるが、特に気山諸頭や日向の献供は見ものであろう。つづいて大祭式があり正午頃から王の舞・獅子舞・田楽舞・子供御輿の渡御等の祭礼が行われる。 ★おはけさん★ これはお祭り前に氏子各部落の頭屋の前に高々と立てられる一種の神離(御神霊がお宿りになるよりしろ)であり、氏神様が氏子を祝福にお出かけになるという信仰に基づく行事であり各頭屋では大切にお祀りするのであるがこれば京都の祇園祭の鉾にも匹敵する意義深いものであるといわれている。これが立つと氏子ではそれより高い山へ上ったり穢れにふれることを遠慮する風習が今も守られている。 秋祭 8月19日に行われる。二百十日の厄日が無事であることを析って古来能が奉納されてきた。風除け能と呼ばれている。 社頭掲示板 |
宇波西神社 御祭神 うがやふきあえずの命 文武天皇の大宝元年3月8日、日向で初めておまつりしましたが程なく今の療養所のある上野谷にお移りになりました。延喜式神名帳によりますと当時北陸道7ケ国にまつられていた352座の御祭神の中で年に3回(新年祭・月次祭・新嘗祭)朝廷から幣帛をたてまつられたのは此の社だけであり当時の明神大社でありました。建武元亀年間兵火のため再度焼失、天正年間今富の城主浅野長政が社殿を造営し参道を寄進しました。国主酒井家から累代修理改築など篤い崇敬が奉ぜられ現在の社殿は嘉永4年の造営です。 御例祭4月8日 社頭掲示板 |
宇波西神社の神事芸能 宇波西神社の神事芸能〔国選択〕 国の無形文化財に指定されている宇波西神社の 「王の舞」は、豊漁や豊作そして国の平安を祈って演じられるようになったもので中世頃に始まったものと考えられます。 また「王の舞」は若狭地方の三方郡・三方上中郡を中心に数々の神社で奉納されてきたもので、古い舞楽の中にあった竜王の舞の竜というものが長い年月の間に変化して「王の舞」になったものといわれます。 「王の舞」は各地域ごとに行われ、それぞれ地域の特色を保ちながら継承されてきました若狭地方に春の訪れを知らせる伝統の風物詩です。 社頭掲示板 |