往古、久々子の邑が(今の三方町家傍)にあったとき、古崎と称する地に鎮座していた。邑が今の地移転し(天慶年間)社も今の小島崎に移して江本大明神と称した。 江戸時代には式内佐支神社の所在は不明であつた。当社を佐支神社と称したのは、明治4年のことであった。 |
佐支神社 御祭神 素盞鳴尊 例祭日 12月8日 当社は平安時代の初期(約千余年前)の延喜式神名帳に載せられた古社であうる。天慶年間に今の三方町家傍から久々子の祖先住民の移動とともに、此の字、的場に鎮座し、以来元亀年間の兵火によって焼失、のち再建されたと伝えられている。更に明治41年末社八社の合祀の機に社殿の新築造営に着手、大正元年12月本殿を、翌2年12月に拝殿が落成した。 よって大正3年11月村社に列せられ、翌4年1月神饌幣帛料供進神社に指定された由緒ある社である。 社名の由来は古の鎮座地の地名である。 佐支神社社務所 社頭掲示板 |
佐支神社 氏子の中に一年交替の「祝」(ホゥリ)と称する制度がある。これについて、『福井縣神社誌』の「特殊神事」の項に、次の通り説明してゐる。 毎年12月8日例祭後、祝の交代引総の式を行ふ。凡て祝は毎朝午前4時起床、直に寒水を浴して身を清め心を鎭めて社頭に参拝、燈明、掃除等所定の勤役行務を終りて自宅に入る。勿論自宅には別に一室を新設し、此に常住して冒りに不深を入れざるのみならず、他人婦女子も敢て出入せしめず、之を水行事と云ふ。一ケ月計後には慣れて習となり怠ることなし。古來より未だ之れが爲めに一人と雖も風邪に犯されたるものなし、偏に信仰と神助の致す所なり。而して前年の祝を本祝と称し、ニケ年の別火をなす。萬一新祝に不幸不浄の厄等あらば又其代役を爲すが故なり。祝は在役中は決して他家に行きても飲食せず、飲食すべき場合には自ら用意して之に備ふ、是れ堅く火を愼むに依るものなり。 右によつて、神を守る「祝」の役の重さを知るこどができる。 式内社調査報告 |