伊牟移神社
いむいじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】伊牟移神社 若狭国 三方郡鎮座
          (旧地)伊牟移神社【旧地】

   【現社名】伊牟移神社
   【住所】福井県三方郡美浜町郷市 25
       北緯35度35分59秒、東経135度56分25秒
   【祭神】国常立命
       (合祀)伊弉册尊 誉田別命 天津児屋根命 市姫大神
       誉田別命 大日霊貴命 伊弉諾尊 建御名方命

   【例祭】3月20日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳
       明治41年現在地にあった金銀子神社に合祀
       昭和7年4月造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは伊屋山に射矢神社として鎮座していた
        明治41年現在地にあった金銀子神社に合祀

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       拝殿

   【境内社】

社名は「イムヤ」と訓み、「忌屋」「忌宮」とする説がある。
郷市集落の西に連なる岡、伊屋山に射矢神社として鎮座していた。明治41年現在地にあった金銀子神社に合祀。
その後、金銀子神社は式内伊牟移神社と改称した。
金銀子神社は、朱雀5年伊勢外宮を勧請したと伝。
式内社の伊牟移神社は,もと三方郷の佐古村に移牟移寺をはじめ天神社,山王社があったのでそれらと関係するのか, あるいは郷市のなかに伊屋山というところがあって, かつての伊屋宮大明神の社があったがそれと関係するのか,などといわれているが,真偽のほどは不明である。


伊牟移神社

鎮座地:郷市25−16.現祭神:国常立命・誉田別命・天児屋根命・大日霊貴命・伊弊諾尊・伊弊册尊・建御名方命・市姫大神。
例祭日2月20日(戦前は12月1日)。旧社格:村社。氏子数:90戸(平成5年)。朱鳥5年(691)伊勢神宮外宮を勧請したという。伴信友の『神社私考』には、
此神社、国帳に見え給はず。そのかみ既に社号の異りたるか、又廃れたるなべし。伊牟移の移は世とよむべし。
とみえる。この神社は、式内比定社ではあるが、『神社私考』が述べるように、すでに国帳(『若狭国神名帳』)には見えないことから、平安中期以降、廃絶した可能性がある。『延喜式』式田本・近衛家本・一條家本・吉田家本・内閣文庫本はいづれも「イムイ」と訓じるが、九条家本は「イモイ」とする。青木紀元は「イムイ」が本来の名称で「イモイ」は訛音であろうとしているがなお語義は不詳である。
もし「イムヤ」と神号を訓じるとすれば「忌屋」「忌宮」の意かとも考えられる。『神社私考』で伴信友は、「神号の伊牟移は其あたりの名にて、其処に伊牟移寺(いむやてら)と云ふ寺のありて、後にいたく衰へて在けむが、廃たる跡処にもあらむ。さるは土人の裡言に、寺の小さきを庵と云へる例なれば、然裏へたらむには、伊牟移寺庵(いむやじあん)と複て云へるを訛ては伊美移芋庵(いみやじあん)と云ふべきなり。今其佐古村に天神社・山王社あり。共に3月1日祭礼。もしくは此2杜の中伊牟移神社ならむか。なほよく尋ね考べし。」として佐占(現若狭町)に求めている。しかし、別の案として「郷市の伊屋山に鎮座した射矢神社(伊屋宮明神・伊矢宮・伊屋宮)が、伊牟移の訛れるものと考えた。『大日本史』『特選神名牒』『神祇志杵』はこの伊屋山鎮座の説をとっている。この射矢神社は、明治4年に郷市の金銀子(きぎす)神社に合祀された。
金銀子神社は、朱鳥5年(690)に伊勢外宮を勧請したと伝える郷市の産土神である。しかし、明治期の一連の式内社復興の流れをうけ縁起は金銀子神社のままで、社号のみ式内社の名「伊牟移神社」と名乗ったとみられる。このため産土神である金銀子神社の名は裏に隠れることになった。伊屋山は、もとは神奈備であった神体山的存在であったのであろう。今日郷市では俗にゼンダイ山と称している。
現祭神も、合祀された神々が多く、式内社時代の神名や金銀子神社の原祭神は不詳とするしかない。社伝によると、郷市は、郷民が集って市を立てて諸物を売買したことにおこる区名であるという。またもとの射矢神社の由緒は享徳3年(1454)一本の矢が天より降り来たことにより射矢大明神と崇めたという。

わかさ美浜町誌『祈る・祀る』



伊牟移神社

美浜町郷市字松本鎮座の伊牟移神社が式内社に比定される。祭神は不詳、一説に「国常立命」(『福井県神社誌』)とされるが『若狭国神名帳』(享保10年書写)には記載がない。
明治44年の『三方郡誌』には、同社は金銀子神社として記載され、「郷市に鎮座す。相伝ふ、朱鳥5年伊勢外宮を勧請す。往古は倉見より郷市までの産土神なりと。合祀市姫神社。もと同区に鎮座したりき。市宮と称せり。相伝ふ、往古商売の此処に会して市を立て、諸物を売買したり。因って郷市と号すと。大市姫を祀れるなるべし。明治41年、金銀子神社に合祀す、合祀射矢神社。もと郷市伊屋山に鎮座したりき。伊屋宮大明神と称せり。三神相殿に座す。一座は太神宮伊勢一座は八幡宮一座は諏訪明神なり。此太神宮をは式内伊牟移神なりと伝ふ。大日本史之に従へり。社寺明細帳には享徳3年、矢一本天降り、それより射矢大明神と崇むとあり。本社の創建享徳にあらは、式内の神と云ふべからす。明治41年、金銀子神社に合祀す。」とある。 明治12年の『福井県神社明細帳』では郷市村字山ノ神沢に無格社射矢神社の記載があり、金銀子神社は射矢神社が合祀された明治41年以降に現在の社名伊牟移神社となったものと思われる。
なお、『神社私考』では「移」を「也」とよむべしとしている。なお、同書ではその所在を「当社の所在数年尋ぬれど詳ならず」とし、まず三方郷佐古村ともしており、また「郷市村に伊屋山といふがありて、伊屋宮明神の社あり、又伊矢宮とも書り、三神相殿に坐す、一座は太神宮、祭日は7月27日、一座は八幡宮、祭日は8月15日、一座は諏訪大明神、祭日は11月初の寅日なり、此中に太神宮と申が本社なりと云へり、この伊屋といへるが、もしくは伊牟移の訛れるにはあらざるか」としている。

わかさ美浜町誌『舞う・踊る』



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