この地は、古朝鮮(新羅)の王子であった天日槍の一族が集団渡来した地点とされている。 当社は天日槍の子孫である菅竈由良度美が住み着き、焼き物作りをされ、若狭地方に焼き物を広められたと言われている。その焼竈をお祭りし、菅竈神社と定めたのが須可麻神社のはじまりと推定されてる。菅竈由良度美は敦賀の気比神社や常宮神社に祀られている神功皇后の祖母にあたり、菅浜には神功皇后や夫の仲哀天皇、その子応神天皇にまつわる神話も伝えられてる。 「新羅からの帰化人である由良度美は叔父の比多可と夫婦になって菅浜に住んだとの記録があり、其の子孫になるのが息長帯比売命(後の神功皇后)である。 それ以前にも垂仁天皇の三年に新羅の皇子『天之日矛』が菅浜に上陸して矛や小刀、胆狭浅(いささ)の太刀などを日本へもってきた」『美浜ひろいある記』 菅竈由良度美(すがかまゆらどみ)は、神功皇后の母方の祖母。清日子と当摩之灯繧フ子として誕生。伯父の多遅摩比多訶に娶られ、葛城高額媛を儲けた。 |
須可麻神社 御祭神 世永大明神(菅竈由良度美姫) 麻気大明神 例祭 暦年 6月2日 由緒 敦賀半島及び、美浜町東部(旧山東村)は、古朝鮮(新羅)の王子であった天日槍の一族が集団渡来(亡名帰化)した地点とされ、それにまつわる地名の多い地域とされています。 菅浜には、その天日槍の子孫である菅竈由良度美という人が住みつき、焼き物作りをされ、若狭地方に焼き物を広められたと言われています。その焼竈をお祭りした社を菅竈神社と定めたのが須可麻神社のはじまりと推定されています。又、菅竈由良度美は敦賀の気比神社や常宮神社に祀られている神功皇后の祖母に当たり、菅浜には神功皇后や夫の仲哀天皇、その子応神天皇にまつわる神話も伝えられています。 神職 織田神社宮司が兼務 祭祀 古くは4月2日に行われていたが、太陽暦になって5月2日になり、更に集落の都合により現在は6月2日になり、手作りの子供神輿や青年の神輿が村内を練り歩きます。 社殿 以前は神社、寺社が同一場所に建設されていたと言われていますが、明治初期に分割され、寺社は山の方に移転しました。 現在の社殿は、昭和50年(1975年)に改築されました。本殿は流造、西向き、明神鳥居。 本殿の正面に向って左側に式内須可麻神社、右側に麻気神社が鎮座されています。村民の信仰は深く、現在も毎月、月次祭が祀られています。 平成12年5月作成 社頭掲示板 |
須可麻神社 御祭神 永世大明神(菅竈由良度美姫) 麻気大明神 例祭 6月2日 敦賀半島及び美浜町東部(旧山東村)は、古朝鮮(新羅)の王子であった天日槍の一族が集団渡来(亡命帰化)した地点とされ、それにまつわる地名の多い地域とされています。 菅浜は、その天日槍の子孫である菅竈由良度美という人が住み着き、焼き物作りをされ、若狭地方に焼き物を広められたと言われています。その焼竈をお祭りした社を菅竈神社と定めたのが須可麻神社のはじまりと推定されています。又、菅竈由良度美は敦賀の気比神社や常宮神社に祀られている神功皇后の祖母にあたり、菅浜には神功皇后や夫の仲哀天皇、その子応神天皇にまつわる神話も伝えられています。 社頭掲示板 |