日置は天体の運行・天象の変化を観察して、それによつて暦を定めることから出た語とされる。本来の祭神は日招き−日神であろう。現祭神は、八幡信仰が隆盛になつた中世以後のことであろう。 |
日置神社 延喜式神名帳所載の若狭国三一座の内の日置神社は、当社のことである。享保14年(1729)に神主尉藤原定住が『日置之神社伝来之略記』、概ね、次のように記している。 「聖武天皇の御宇(724〜49)には、三松と日置との間に鎮座されていた。御祭神の神秘な光は、あらゆる方向に輝き渡って目出度いことや、小思議なことが起った。そのことが遠近の国々に伝ったので参拝者も多く祭祀は、厳格、壮厳に執り行われて、既に、千七百年に及んでいる。 永享年中(1429〜41)に、内之捕小黒飯城主大草伊賀守忠基公が、日引邑に社殿を遷し、兵家の守護神と崇められた。 ところが、宝徳元年(1449)9月9日夜に一瀬氏定幸に神託があったの、今の地の杉谷に遷し奉った。この社が、『延喜式』の神名帳に所載の日置之神社である。御祭神の正直慈悲の誓いは、古今を問わずいや増して深く信仰する人々の真心に感応して、不思議な前兆を示されたので、当郷の産土神、諸寺の鎮守として崇められた。 国主は、神域や神田の年貢を免除して祭祀の料とされたが、戦乱の世となって、荒廃した。宝永(1704〜11)の頃から、父祖が建立した規模で再建・再興したいと志願して努めて来た念願が適って、享保14年に漸く、その功を終え三種の神宝を奉納することが出来た」と述べている。日置を「ヘキ」「ヒキ」と訓をつけているが、現在は、ヒキ神社と称し、中世から近世にかけて、「杉谷荒神」「荒神サン」と呼んでいる。これについて『若狭国官社私考』に、康永3年(1344)に守護大高重成が、日引村の瑞泉寺を日置に移し、臨済宗瑞應山大成寺として再建した時に、日置神社の神域を侵して寺を建てたので、神社が寺域に入り恰も寺の鎮守のような形になって荒神様と名をつけたものである」と記している。 福井県神社庁 |