御本殿後方の川岸に近い所の窪みの池は飯豊青皇女の禊池と伝えている。 もとは青と横津海の境あたりにあったが、洪水のため現在地に遷祀(その年紀未詳)とも伝わっている。 |
青海神社 延喜式内青海神社由緒 主祭神 椎根津彦命(珍彦) 合祀神 八幡大神・稲荷大神 御神徳 海上漁業の導きは元より諸業の先導・指導、他に治山治水殖産興業 祭日 祈年祭 2月11日(柴の実入れ神事) 例大祭 10月17日 新嘗祭 12月3日 夏越大祓 池替神事 7月1日 当神社の創建年代は不詳なれども、延喜年間に編され、延長5年(927)に撰進された延喜式神名帳に記載された式内社であり、古くから信仰を集める古社であります。主祭神の椎根津彦命は古事記、日本書紀によると、神武天皇東征の砌、海道を導かれ日本の建国に際しては殖産興業にご尽力されました。 青郷の人々の祖先である青海首は海部と呼ばれる海に関する人々であり、御祭神椎根津彦命の末裔でありますが、海部を御統治された第17代履中天皇の皇女飯豊青皇女(青海皇女)が御祭神を慕われ御祀になられたと伝えている。現在御本殿後方の窪地は飯豊青皇女の禊池と伝えている。 古代の青郷は現在の地域よりはるかに広く、現在の青郷は元より高浜町の内浦地区、京都舞鶴市の大浦地区をも含み、当神社は若狭丹後国にわたるこの地域の総鎮守の宮であります。 社頭掲示板 |
青海神社 鎮座地伝承 飯豊青皇女(第17代履中天皇の皇女。水鏡には第24代飯豊天皇と記載)は忍海皇女とも申し上げ、海部を御統治になり、青郷の海部(丹後地方を中心に海部があった)も、皇女の私民であり、その御名代の御料地であったと、旧事本紀並びに帝王系図に書かれております。 皇女が御名代わりとまで、御慈しみになった青の地に、その青の人々(青海の首)の御先祖の椎根津彦命をお祀りになったと伝えられていることは、無理のないことであると思われます。 しかも、その境内に禊(みそぎ)をなされた地があったと伝えられ、現在、御本殿後方の川岸に近い所の窪みの池がそれであると言い伝えられています。 古き書物には、昔の阿袁(あお)郷、現在の青郷、内浦、丹後の大浦一帯の総鎮守の宮であり、若狭・丹後の海の漁場守護神であったと当地を伝えております。又、舞鶴市の森の弥加宜(みかげ)神社(大森さん)、余保呂の神社、当社の三社は兄弟神さんだと言われ、当社も大森さんと言われております。 特殊神事 旧正月3日に行われる伝承神事の柴祈念は現在、祈念大祭の祭典に組み込まれて実施されている。神饌には牛の舌御供(大判形のし餅)と柴の杷を用いる。祭典中宮司の祝詞奏上後この神饌を献上し、氏子中横津海区による神主所役が諸員に宣命式の宣詞を述べるが三節に区切ったその節ごとに献上した柴を持ち、行司所役がワッと声をあげて神主所役を叩く。(打った柴はそのつど別におく)この柴を氏子が参拝して、頂いて各家に持ち帰る。この柴杷は旧正月11日の作り始めの日に各自の畑に立てて神籬として、これに野の物を供え畑に肥料(灰)を施す所作をする。これが済むまでは田畑へ肥料を与えることをしないのが習わしである。又、この日その年の豊凶を見定める水占のために、ハゼの木の立札十二枚を作り、社殿の両側に立てる慣習もある。 この祭礼の由来は、古来の鎮座地から洪水の為流されて社殿の復興に際し、仮殿に作った柴垣の社づくりの様を形どって、翌る正月の氏子の喜ぶ姿から祭礼の形式がととのったものと解釈されている。 建国記念日が制定された年の旧正月3日が、2月11日(建国記念日の日)に当たり、肇国に関わられた御祭神の尊き御神慮であるとして、現在の祭礼日が決定され、建国祭も併せて執行している。 参詣の栞 |
青海神社 禊池 此の池は第17代履中天皇の御息女青海皇女(飯豊天皇と称す)が青海首の御祖神である当社の御祭神椎根津彦命(別称珍彦)を慕われ御拝礼される時に青葉山を仰ぎつつ禊(潔斎)をされた池と伝えられている。 7月1日の池替神事の日のみ御祓を受けた禰宜(神事係)が清掃する慣例になっている。 社頭掲示板 |
青海神社 由緒沿革 創祀年代は不詳であるが『延喜式神名帳』収載の式内社である。現在音読して「セイカイさん」とも、又俗称「大森さん」とも言う。御祭神の椎根津彦命は神武天皇東征の砌、御仕えになられ、海運漁業陶業殖産興業に御神徳のある方であるが、青海の首の祖神でもある。本居宣長翁の古事記伝には「履仲天皇の子(一説には孫)と言われる飯豊青海皇女を祀る」とも註記している。鎮座地の青は、平城宮址出土木簡に「青里」 「青郷」と記されている如く、古来朝廷の大贄の貢進地であり屯倉であったと推測され、皇女との深い繋がりが考えられる。若越小誌には、「履仲天皇の青海皇女は飯豊皇女又、飯豊青皇女とも云ひ、若狭に御名代りの地を有せられり。阿袁郷即ち是にして、其郷名之より起る」とある。現在社殿後方、関屋川に近い窪地は、「禊池」と言い、飯豊青皇女の禊をされた涌泉の遺址と伝え、池水替え神事が七月一日に当年の禰宜役により実施される。 又、この他から北西方向を望めば、泰澄大師が開山されたという、霊峰青葉山が真近に聳えている。神社と山を結ぷ線上には、石剣石戈出土地や前方後円墳も所在する。往古、青葉山麓を中心として丹後国加佐郡の東西大浦地区(現・京都府舞鶴市)にも及んでいた。 『若狭国神名帳』には『正五位青海明神』、『稚狭考』には「青海大明神」とあるが、寛政7年(1795)9月・神祇管領長卜部兼倶より正一位の神階贈位に預かり併せて神額染筆下附を請い聴許された。明冶44年5月6日に幣帛供進の神社に指定された。大正13年8月5日に郷社に昇格、神饌幣帛料供進の神社に指定された。特殊神事には、シバノミイレ(柴祈年)の行事を今に伝えている。 福井県神社庁 |