標高712mの多田岳の北麓に鎭座する。 |
多太神社 縄文時代から続く自然崇拝は、農耕生活の普及と地域共同体の形成過程の中から、 清浄な不入の聖地として姿の美しい山や印象的・象徴的な山を信仰の対象とする神 体山信仰として全国的に成立していく。 若狭では『延喜式』に挙げられる若狭国遠敷郡の筆頭の多太神社や若狭比古神社 などが山麓に創建されていることから、前代から多太山(多田ヶ岳)が地域でもっ とも信仰される神体山であったことが考えられる。すでに、弥生時代以降、多田ヶ 岳周辺には多くの人々が居住し生活を営んでいたことが遺跡の調査や立地などか ら明らかである。この居住や生産に最も影響を与える洪水などの気象の変化は、山 に宿る荒ぶるカミの仕業とされ、これを鎮める祭祀からの成立も考えられる。 また、小浜湾から望む多田ヶ岳は三角錐の最も秀麗な山容を示しており、日本海 を行き交う人々や海外の人々からも特別視された山であったことが想定される。 「若狭の社寺建造物群と文化的景観」 2007 福井県・小浜市 |
多太神社 多田村大明神者、人王四十八代称徳天皇御宇天平神護二年之比、影向此地給、而宝殿も其比建立也、御神体者、出雲國素盞鳴尊之御子也と申、寛文年中申の年(一六六八)、從神道長上吉田侍從殿、委細之書物判形被下、奉納宝殿有之、自宝殿建立之比、及當年九百有余年也、當社遷宮等者、自多太寺相勤之者也、延宝三年乙卯九月廿三日多田村社人池田甚太夫 延宝3年(1675)の『由緒書』 |