神社明細帳に、「神功皇后新羅を徒し玉ふ時雷大臣命御軍に從へり。新羅降属して凱還の後津島縣主となり韓邦の入貢を掌る。対馬下縣郡阿蓮村に房り祝官をして祭祀の禮を教へ太占、亀トの術を傳ふ。後加志村に移る。今太祝詞社に合祭す。」とある。 当社の地が雷大臣の家跡と言い、境内にその墓と伝える宝筐塔がある。 大和国添上郡の太祝詞神社は、現在の天理市の森神社(祭神:天児屋根命)が比定されるが、天平神護元年(765)に対馬の当社から大和国添上郡にまず勸請され、平安遷都に併せて、さらに左京二條へと勸請されたと考えられる。そして現存するのが、本家たる当社と大和の森神社の二社である。 |