神功皇后がこの浦に御舟を止め、親ら祭り給う所という。 久和の乙和多都美神社も式内社であることを進んで主張していない。 |
乙和多都美神社 神社明細帳の由緒によれば、神功皇盾此浦に御舟を止め、親ら祭り給ふ所なり。 明治7年6月村社に列せらる。とあるだけで、これが式内の名社であることを陳べてゐない。また村の人たちに尋ねても、式内社のことを言ふ人はない。神功皇后の話は出てくるが、これは対馬の海邊の神社には何処もあることなので、これだけで証とするわけにはいかない。しかし當社が、下縣で唯一のワタソミの社號を伝へた神社であることは、『対州神社誌』に見られる通りである。それには、 和田津美大明神。神躰石。勧請不知。 本社一間角、中方二向。村より辰方二町程之所也。 拝殿九尺二壷間。神山麦五斗蒔程、椎雑木有之。 6月初午日、11月初午日村中より祭之。爲祭料麦二斗二舛出之、巫府内とら。 とあり、これが當社に関する記事の全文である。これでは普通の村の氏神といふだけで、和多都美の特色も見られず、官社の傳統もない。社號は確かにワタツミであるが、その由緒は全く不明である。 式内社調査報告 |