日本書紀に天武天皇3年(674)に対馬で銀が産出され、日本で銀を産した始まりと記されている。 寛仁3年(1019)に刀伊の入寇(中国満州の女真族が賊船50艘3000人で対馬、壱岐、博多を襲った)の際に、銀山が襲われ損害を受けた。 安徳天皇は、壇の浦源平の合戦で敗れ、祖母である二位尼に抱かれて急流に入水し、わずか八歳で崩御したとなっていますが、この久根地区では、安徳天皇は対馬に逃れて生き延び、対馬島主、宗氏の始祖であると信じられ、その墓も宮内庁の陵墓参考地として残っているため、銀山上神社に祀られている。 祭神諸黒神は室黒神とも呼ばれ、鉱山の開発に当たって、朝鮮半島から渡来した技術者がもたらした神だとされる。 |
銀山上神社 久根田舎安徳天皇御陵墓の由来 この地は厳原町久根田と云ラ村である。久根田舎の旧号は大調といっていた。今も学校の校名は大調小学校と呼んでいる。これは古くからこの里に良賃の銀が産出され、その頃銀は大変貴重で、調賦の中で最も良い調物(みつぎもの)であった。故にここを調の里(つきのさと)と名付けられた。 現在は久根田舎と云うが、この村全体の字名は安徳天皇にちなんだ字名であると伝えられている。対馬の中世史は、先ず宗氏の入国で扉が開き、対馬島主として600余年にわたる治世が続いたのであるが、その宗家の始祖は誰であるか、現在に至るまで諸説がいろいろと流布されているところである。しかし、この地域の人たちは宗家の始祖は安徳天皇であると信じきっている。又この地域代々の言い伝えでもある。対馬島誌にも第34代宗重正は自ら家記を撰んで、重正自身が安徳帝の直系である、としている。 説によると、壇ノ浦源平の合戦で平知盛が没した折り、従臣(斉藤為持)がその孤(こ)を抱いて筑紫に走り、ひそかに天皇を奉じると、島津氏の女を娶り二子を生み、長を重尚(宗家初代)季を助国(二代)というとある。 社頭掲示板 |
安徳天皇御陵墓 久根田舎安徳天皇御陵墓の由来 この地は厳原町久根田舎と云う村である、久根田舎の旧号は大調といっていた。今も学校の校名は大調小学校と呼んでいる。これは古くからこの里に良質の銀が産出され、その頃銀は大変貴重で、調賦の中で最も良い調物(みつぎもの)であった。故にここを調の里(つきのさと)と名付けられた。 現在は久根田舎と云うが、この村全体の字名は安徳天皇にちなんだ字名であると伝えられている。対馬の中世史は、先ず宗氏の入国で幕が開き、対馬島主として六百余年にわたる治世が続いたのであるが、その宗家の始祖は誰であるか、現在に至るまで諸説がいろいろと流布されているところである。しかし、この地域の人たちは宗家の始祖は安徳帝であると信じきっている。又この地域代々の言伝えでもある。対馬島誌にも第34代宗重正は自ら家記を撰んで、重正自身が安徳帝の直系である、としている。 説によると、壇の浦源平の合戦で平知盛が没した折り、從臣(斎藤為持)がその孤(こ)を抱いて筑紫に走り、少弐資頼が鎮西の守護となるに及んで大宰府の兵事を掌り、ひそかに天皇を奉じると、島津氏の女を娶り二子を生み、長を重尚(宗家初代)季を助国(二代)というとある。 寛元4年宗重尚対馬の在庁を討ち、対馬を平定した宗氏が地頭代官を兼ね安徳天皇を筑前吉井からお迎えし皇居をこの地に定められ、建長3年4月15日(1251)御年74才で崩御されたという。 この丘御陵墓地の台帳字名は補陀落山向こうを眺めて楼閣山、その左側が御所山という。補陀落山は安徳帝が朝タ母宮を偲んで奉拝されたところと云う。楼閣山は御殿のあったところで、御陵墓を中心に末広がりの形ですぐ下に納言殿塚又重臣や御乳母女官墓があり、天皇御料の馬塚・犬塚等の古塚もある。 社頭掲示板 |
銀山上神牡 祭神 諸黒神 相殿 安徳天皇 神体 なし *ただし、宝物として弥生時代後期の銅鏡6面、中世の銅鏡7面、弥生時代後期の広形銅矛の一部(鋒部断片)がある。 由緒 正確な創建年代は、不明。 平安時代に編纂された『延喜式神名帳』の対馬島下県郡の項に「銀山上神社」という社名が見えるが、現在の銀山上神社と同一かどうかははつきりしない。 また、同じ『延喜式神名帳』に見える「銀山神社」(現在厳原町樫根に同名の神社が鎮座)が久根にあつたという説もある。 いずれにしても、久根地域に古くからの官社があった可能性は高い。 時代により社名の変遷があり、江戸時代には「五所大明神」(あるいは御所大明神) と称していた。寛永12年(1635)の棟札には、 謹奉重造久根村御所大明神上梁 (中略) 対馬島主平朝臣拾遺宗義成 とあり、社名が「御所大明神」であること、藩主自らが願主となっているなど、対馬藩主宗氏の信仰を集める神社であったことが分かる。 社頭掲示板 |