昔は後の山に祀られていたということで、頂上に磐境の跡があるらしい。 中世の文書にも「しまのみこ」とある。 島御子神と島大國魂御子神の関係に関して、授位の記事を調べても、島御子神が載つているが島大國魂御子神なるものは載つていない。延喜式には、島大国魂御子神社が載つて、島御子神社はない。島御子は、島大国魂御子の前名、若くは異名と推定されている。 |
島御子神社 (現在の島大国魂御子神社)を式内社島大國魂御子神社と考定してから、多くの論者がこの説を容れ、いつしかこれが定着したやうになつてゐる。 これに対して曾の島御子神社は、中世の文書にも「しまのみこ」とあり、藩政時代を通じて「島之尊大明神」と呼ばれてゐる。これは古い神名を傳へたものと見られ、そこで當社を「島御子神」とすることは何人も異存はない。しかし式内の島大國魂御子神社とすることには積極的でない人が多い。これは貞観十二年三月の授位の記事に、「嶋御子神」とあるところから、それに當社を當てるからである。ところが延喜式には嶋御子神社といふのはない。そこで、これは式外古社といふことになり、嶋大國魂御子神とは別神と見るのである。 そこで三代實録の神位奉授の記事を検証すると、貞観12年(870)3月5日丁已、多久頭神、和多都美神等と共に、嶋大國魂神、嶋御子神が載つてゐるが、嶋大國魂御子神といふのはない。続日本後記の承和4年(837)が、対馬の神々に授位された初見であるが、それ以來の授位の記事を調べても、嶋大國魂御子神なるものは載つてゐない。さうなると神位を授かつたのは嶋御子神であつて、嶋大國魂御子神ではないのである。それなのに延喜式には、嶋大國魂御子神社が載つて、嶋御子神社はないのだから不思議である。 そこで『対馬島誌』の編者が、「島御子は、農大國魂御子の前名、若くは異名と推定し得べき理由あり、」と述べてゐるやうに、これは同一神と見るべきである。さうなれば、嶋大國魂御子神社といふ式内社は、曾に祭られてゐる島御子神社を措いてほかにない。 式内社調査報告 |