天神多久頭魂神社
てんじんたくずたまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】天神多久頭魂神社 対馬島 上県郡鎮座

   【現社名】天神多久頭魂神社
   【住所】長崎県対馬市上県町佐護洲崎西里286
       北緯34度38分18秒、東経129度20分0秒
   【祭神】天神地祇
   【例祭】1月23日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創立年月、由緒等不詳
       明治7年6月郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】なし
       

   【境内社】

「天道」とよばれ、社殿もなく、普通の神社と異つている。浜辺に積石の塔が二基並び、磐座の祭壇があるが、これは遙拝所であつて社殿はない。
この背後の山を天童山という。大和の三輪山と同じ神籬の山であり、山には社殿等はない。


天神多久頭多麻命神社

対馬の天神は、菅公と関係なく古い。それは天ッ神、國ッ神之いふイデオロギー的な分類ではなく、もつと素朴な〈天の神〉である。それは多分<海の神>に対する名称であつたが、両部神道の衣を着けた時天道菩薩となつたやうだ。
天道といふのは、太陽を表す「テントウ」であらうと思はれる。

式内社調査報告



天神多久頭魂神社

対馬には“天道信仰”という独自の信仰が存在する。おそらくその原初は太陽信仰であり、そこに母子二神の伝説や、神道・仏教の要素が加わり、現在のような一つのまとまった内容になったであろうと推測される。
現在ある“天道信仰”の中核をなす伝説は“天道(天童)法師”にまつわる話である。対馬の南部にある豆酘(つつ)という村に一人の娘があり、ある時、太陽の光を浴びて(一説では朝日に向かって用を足したとも)感精して生まれた神童が、のちの天道法師となるという話である。天道法師は仏門に入り、若くして奈良の都で修行を重ねて神通力を得て対馬に戻ったが、時の文武天皇が病に倒れた折に、対馬から飛行して奈良へ赴いて見事に病を治したという。この天道法師が、対馬独自の神である“多久頭魂神”であるとされている。
一方で、母神=神魂神(神産巣日神)・子神=多久頭魂神の母子二神として対馬で信仰されており、これは母神=神功皇后、子神=応神天皇という“八幡神”信仰との類似性や関連性が指摘されている。いずれにせよ、日本の神仏伝説を巧みに織り交ぜながらも、対馬独自のものとして長きにわたって信仰されてきている。
この多久頭魂神を祀る神社として対馬の北端部分に位置する佐護にあるのが、天神多久頭魂神社である。この神社には社殿がなく、そのそばにある天道山を遙拝する形で建てられている。境内の入口には鳥居と石積みの石塔があり、その奥まったところに、中に立ち入ることの出来ない階段状となった場所があり、その一番上のところに鏡が置かれている。これが神籬・磐境を設けた祭祀形態であることは間違いない。まさに原初的な祭祀の形をそのまま残した神社である。さらに言えば、鏡を祀ることで太陽信仰の場であることを示していると考えるのも容易である。

日本伝承大鑑



郷社 天神多久頭神社

創建年代及び由緒等詳ならずといへども、神名帳考証に、「天神多久頭麻命神社、今三根に天神と云ふ神あり、此山三根第一の高山にて、今世建立したる体に非す、アマカミを今誤て音にてテンシンと云ふなるべし、拷幡千千姫命、日本紀云、高皇産霊尊之女拷幡千々姫、按高魂尊者、津島縣直祖也、麻姫也、頭与千音通、非多久都玉命也、姓氏録云、神魂命子多久都玉命」と云ひ、神社覈録には、「天神多久頭多麻命神社、天神は阿米乃加美と訓べし、多久頭多麻は假字也、祭神明か也、佐護郷湊浦村に在す、今主基宮と称す、当国下県郡多久頭魂神社(頭注に、下の多字諸本なし、今按を以つて補ふ)」といひ、次に神位を挙げ、「三代實録、貞親12年3月5日丁巳、授対馬島天多久郡麻神從五位上」とあり、神紙志料によれば、天神多久頭多麻命神壮(按本書、天の下に神の字ありて、多麻の多字なし、今三代實録に拠りて神字を削り、多字を補ふ、今下縣郡佐護郷湊村天道山に在り、蓋神魂命の子天多久豆玉命を祭る」と云ひ、末に貞観の叙位を挙げたり、而して共に対島國上縣郡16座の一に列せり、又太宰管内志に「天神多久頭麻命神社、延喜式上縣郡天神多久頭麻命神社あり、天神多久頭麻命は阿米乃加美太倶豆能美許登とよむべし(一本には多久頭多麻とあり)、此神の御名の義いまだ考へず(下縣郡多久都神も是と同神なるを、文字の足らざるは落ちたるか、又之より別神なるかしらず、さて姓氏録左京ノ神別に、爪工連は神魂命の子、多久都玉命三世、天仁木命之後世とある是なるべし、又今の二位郷といふ名も、元は仁伊にて、仁木の音便よりうつりたるにはあらぬか)、さて三代實録十七巻に、貞観12年3月5日(丁巳)詔授対馬島天神多久都神從五位上とあり(下縣郡多久都神の事は別に見えたり)、又玉勝間に、天神多久頭麻神社は佐護郷湊村にあり、神階從五位上、また主基ノ社とも申す、又式ノ考証に、云々、又対馬国に、天神多久頭麻神社は祭神御魂御子神なり、佐護郷湊村にあり、いつれか正しからむ、なほよく考ふペし」とあり、共に本社の事を云へたるが如きも、社伝等の釈ぬべきなければい姑く附記して後考を俟つ、明治7年6月郷社に列せらる。
社殿は假殿のみにして、境内坪数1150坪(官有地第一種)を有せり。

明治神社誌料



天童伝説

天道 神体並びに社 無之
対馬州豆酘郡内院村に、照日之某と云者有。一人之娘を生す。天智天皇之御宇白鳳13甲申歳2月17日、此女日輪之光に感して有妊て、男子を生す。其子長するに及て聡明俊慧にして、知覺出群、僧と成て後巫祝の術を得たり。朱鳥6壬辰年11月15日、天道童子九歳にして上洛し、文武天皇御宇大寶3癸卯年、対馬州に帰来る。
霊亀2丙辰年、天童三十三歳也。此時に嘗て、元正天皇不豫有。博士をして占しむ。占曰、対馬州に法師有。彼れ能祈、召て祈しめて可也と云。於是其言を奏問す。天皇則然とし給ひ、詔して召之しむ。勅使内院へ来臨、言を宣ふ。天道則内院某地壱州小まきへ飛、夫筑前國寶満嶽に至り、京都へ上洛す。内院之飛所を飛坂と云。又御跡七ツ草つみとも云也。
天道 吉祥教化千手教化志賀法意秘密しやかなふらの御経を誦し、祈念して御悩平復す。是於 天皇大に感悦し給ひて、賞を望にまかせ給ふ。天道其時対州之年貢を赦し給はん事を請て、又銀山を封し止めんと願。依之豆酘之郷三里、渚之寄物浮物、同浜之和布、瀬同市之峯之篦黒木弓木、立亀之鶯、櫛村之山雀、與良之紺青、犬ケ浦之鰯、対馬撰女、竝、州中之罪人天道地へ遁入之輩、悉可免罪科矣、右之通許容。又寶野上人之號を給わりて帰國す。其時行基菩薩を誘引し、対州へ帰國す。行基観音之像六躰を刻、今之六観音、佐護、仁田、峯、曾、佐須、豆酘に有者、是也。
其後天道は豆酘之内卒土山に入定すと云々。母后今之おとろし所の地にて死と云。又久根之矢立山に葬之と云。其後天道佐護之湊山に出現有と云。今之天道山是也。又母公を中古より正八幡と云俗説有。無據不可考。右之外俗説多しといへとも難記。仍略之。不詳也。

対州神社誌



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