霹靂神社
いかづちじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】能理刀神社 対馬島 上県郡鎮座

   【現社名】霹靂神社
   【住所】長崎県対馬市上対馬町大増1073
       北緯34度37分39秒、東経129度26分50秒
   【祭神】雷大臣命 日本大臣命 磯武良
       伊弉諾尊,事解男,速玉男 『大小神社帳』

   【例祭】11月1日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】承和10年(843)9月19日従五位下
       貞観12年(870)従五位下
       その後の由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「能野権現」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

神功皇后の時、雷大臣(イカツオミ)命、安曇磯武良(アヅミノイノタケヲ)を新羅に遣わされ、雷大臣は被地の女性を娶り一男を産む。名づけて日本(ヤマト)大臣と云う。新羅より帰国の時、浜久須村に上陸し、この地に神祠を建祭った。
霹靂神社は、新羅や百済、伽耶系の陶質土器の出土品が多い、海に突き出た朝日山古墳のすぐ脇、その敷地内に神社があると云った方がよい。
参道の左側に祠があり、鎌倉・室町時代の懸仏126面が奉納されており、この内87面は比較的原型をとどめている。


霹靂神社

朝日山古墳群(対馬市指定文化財)
指定年月日  平成17年5月1日
時代     古墳時代(5世紀中葉)
地番     対馬市上対馬町大増1073番地
この岬を朝日l山といい、頂上に霹靂神社の本殿がある。
本殿の周りに古墳時代の石棺墓群が破壊され露出している。
昭和23年(1948)東亜考占学会によって調査がおこなわれた。出土品は漢式鏡、鉄斧、鉄鎌、鉄鋤、鉄剣、鉄刀、紡錘車、須恵器、百済系、伽耶系、新羅系の土器である。
この古墳群の主墳と思われる石棺墓は昭和48年復元、棺の内壁にはわずかに朱(赤色顔料)が残っており、被葬者の高い身分がうかがえる。
平成21年12月  対馬市教育委員会
霹靂神社の懸仏(対馬市指定文化財)
指定年月日   平成17年5月1日
時代      鎌倉〜室町時代
地番      対馬市上対馬町大増1073番地
霹靂神社参道の左側に祠があった。祠には鎌倉・室町時代の懸仏126面が奉納されており、この内87面は比較的原型をとどめている。
対馬で多数の懸仏が一ヶ所に奉納されているのは他に例がなく極めて貴重である。古くは御正体鏡とよばれ、神社の本地仏を銅鏡などに、毛彫、浮彫を施して御霊代とした。
鎌倉後期から本地仏を銅に貼り付け、獅噛を装着して紐孔とした。
平成21年12月  対馬市教育委員会

社頭掲示板



朝日山古墳郡

1.指定年月日 昭和49年2月1日
2.指定地 上対馬町大字大増1073番地
3.説明
この椎の古木が生い繁った丘の上に霹靂神社がありこの丘は俗に朝日山と呼ばれている。本殿の裏側に石室墓の群集があり昔盗掘をうけている。
昭和23年調査が行われ漢武鏡一面・勾玉・鉄製剣・刀・斧・鎌・鋤・紡鐘車・釘・須恵器・土師器が出土した。
この古墳の須恵器はわが国の祝部土器の中で最も古い形式とされている。
九州の祝部土器の形式を分類してその編年をつくる研究の動機となったのがこの朝日山の古式祝部であった。
また金海式土器が学界で問題になったのもこの朝日山出土器が知られてからである。
考古学上朝日山古墳を標準として中期古墳と後期古墳と類別している。

社頭掲示板



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