此の地は神功皇后新羅征伐の時の、行宮の古跡という。亀トの神を祭る。 もともとの卜占の聖地の上に、中世になり、熊野系の修験道が入り込んだと考えられている。 文永11年蒙古軍襲来の際霊神山の中腹より大石(神石)三ツ落来りて異賊船を撃破したという。 |
能理刀神社由緒記 鎮座地 対馬国上対馬町大字西泊字横道218番地 神社名 能理刀神社(旧指定村社) 御祭神 宇麻志麻治命 天児屋根命 雷大臣命 例祭日 夏祭旧暦6月3日 秋祭旧暦11月3日 元旦祭1月1日 新年祭2月17日 新嘗祭11月23日 神社進展 江戸時代現在の能理刀神社は熊野三所大権現社であった承知10年9月19日従五位下に叙せられる貞観12年従五位上を授かる明治7年6月社格村社に列せられ大正3年6月16日指定村社昇格神饌幣帛料供進神社に指定さる 境内社 合祀 龍神神 祭神 海童神 観音不動神 由緒 大古昔老人夫婦熊野三所大権現神(現在能理刀神)を小舟に乗せ奉りてこの部落の西北隣浜に来り殿を造り奉り留りそこに榎木があって衣掛けといった後に現在のこの高台の地に遷宮奉りて老人夫婦は行方知れずこの地は神功皇后の新羅征伐の海上安全戦捷祈願行宮の古跡の社であり延喜式神名帳に能理刀社はこの近郷の古名社として名記されている亀卜所(占祈祷)の神霊神をまつる古社でこの権現山は古神道の霊神山で中世に至り熊野系の修験道者山伏が入山して修練した亀卜所であったとされている昔当浦合外目の浜にこの神を最初着給ふ浜辺丘に朝日不出前に里人至れば年頃60才計の御形にて冠を着し至り高貴の官人座給ひて是の貴官人を奉見する里に帰り不幸あり其後貴官人行方所不明それよりこの浜辺丘に里人朝至らず 文永11年蒙古軍襲来の際霊神山の中腹より大石(神石)三ツ落来りて異賊船は打破給ひて州浜里人を御助給ひし由来記は隣の丘に建立す 神社修改築経過 文化4年 社殿改築 明治14年4月 神殿改築 大正4年秋 拝殿改築 昭和8年3月 神殿改築 昭和13年 参道一部改修 昭和43年 拝殿屋根履替 昭和56年11月 通殿拝殿改築 平成2年11月御大典奉祝記念行事としてこの由緒板を建立する 平成2年11月吉日 能理刀神社宮司修行大助 祢宜 ひさみ 氏子総代 権祢葺 勝代 西泊区 社頭掲示板 |
能理刀神社 中世から近世にかけて、両部神道が発達した時代、熊野権現と称した社祠が十余ヶ所あり、これが上縣に集中してゐる。古くはト事を行つてゐたことがうかがはれ、ト部の末裔と見られる家どもが関係してゐることが多い。これらは古いト部の祭祀であつた社が、中世において熊野信仰と習合したもので、個有の祭神三座が、熊野三社に擬せられて、三所権現と称したものと思はれる。 明治初期の神佛分離、社號復旧に際して、能理刀神社、霹靂神社、天諸羽神社と称したものは、すべてこの系列の神社であつた。それぞれ旧號に復したといふけれども、古名の忘れられた社も多かつたはずで、『大小神社帳』以來諸説一定しないのはそのためである。 式内社調査報告 |