社伝によれば、神功皇后が新羅よりの帰還の途、上県郡峰町に至り旗八旒を蔵めて、新羅を鎮める験としたといい、それが現在の宗形八幡という。その後旗は、木坂山に遷し、木坂八幡宮(当社)とし、宗像社を末社にしたという。また、仁徳天皇の御宇、異国の軍艦が本州の西面の海面に来襲した折に、木坂山の山頂より奇雲烈風が起こり、軍艦は散じ沈んだとも伝えられている。 この神社の鎮座している山を伊豆山という。「いず」は「いつ」で斎であり、神聖な山を現し、斎山であったがいつしか伊豆山になったという。 |
由緒 対馬一宮、元国幣中社、海神神社略記 主神豊玉姫命は、神武天皇の祖母神で、鵜茅葺不合命の母神、彦火火出見命の后神に坐して、父君は海神豊玉彦命であり、魚族、海草の藩植海潮の満干船舶の往来等大海に関する一切を主宰し給う神であると共に安産の神でもあらせ給う。御本殿に御鎮座の5柱の神々は、皆神代に於ける皇室の御祖先の神々であらせられます。 当地御鎮祭の年代は、古代の事とて詳ではないが、旧記に依れば初め上県郡佐護に出現し給い。更に勅命を以て伊奈郷伊奈崎の宮に移し奉れ、どこの宮も清水無きため現在の木坂伊豆山に遷座し給うと伝う。 神功皇后の三韓征伐の時は、己に此の伊豆山に鎮座し給へりと伝う。当社は延喜式に「対馬の国の一宮」に坐します。 尚、当社は西北に満韓を控え、内外咽喉の地に在り、皇国鎮護の海神として歴代天皇の崇敬厚く、国家の大事ある毎に勅使参考祭祀奉幣あり。尚又藩政時代に於いても、藩主の崇敬篤く、島内各村に神事所役を命ぜられた程なり。神功皇后三韓征伐の際は海上にて数々大神を奉祭され、其の御加護により、刃に血ぬらずして三韓を降し得たりと御凱旋の折は特に当地御前の浜で懇に報賽の祭事を行はせられ、8旒の御旗を遣し給い、朕の魂も御旗と共に永く留め置き、海神とともに永く皇国鎮護に当らんと告げ給へりとぞ。爾来当社を和多津美神と奉称すると共に木坂八幡宮とも奉称するに至れり。 この8旒の旗風は、彼の三韓を吹き靡かせしものなれば、此御旗の当社に納まれる事を伝へ聞きたる三韓国王等は数々当社に幣物珍寳を奉献して威霊を敬拝せり。斯る神代よりの尊厳無比の古社なれば、其の御造営の如きも昔時は勅命により太宰府所収上県郡6カ年間の貢租を以てこれに充て、藩政に至っては藩費を以て30年乃至40年目毎には必ず造営せらるるを例とされたり。 大政奉還後、明治3年「和多都美神社」と定号され、又明治4年5月国幣中社に列せられ、神社の経費はすべて国費をもって支弁されることになり、同年6月太政官より「海神神社」と定称せらる。昭和20年大東亜戦終戦と共に、国幣は中止され今日に及べり。 御本社の境致 神社は対馬の首都厳原を距る約40キロ、上県郡峰村木坂、伊豆山の中腹約280段の石段を上りたる所に在り。対馬の中部西海岸に面す樫、椎、槻の大木鬱蒼として、千古の林層をなし、山上常に雲気を帯ぶと、社頭を僅に下れば眼界俄に開け、対馬西海の風光一眸の下に集まる。飛崎の鼻は眼下西北方に突き出し、怒涛澎湃として飛沫の花を散らし、渺茫たる朝鮮海峡を隔てて煙波模糊の間に古三韓の山々を望むことを得而して夕照と相映発するに至っては蓋し地上の絶勝と云うべし。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
海神神社 海神神社(かいじんじんじゃ) 所在地 峰町木坂伊豆山鎮座 主神 豊玉媛命 祭神 合殿 彦火火出見尊 鵜茅葺不合尊 外二神 この外に摂社・末社十七座 【由緒】 本社は、延喜式神名帳所載、対馬上県郡の名神大社和多都美神社に比定され、神功皇后の旗八流を納めた所として八幡本宮と号し、対馬一ノ宮と称されたもので、明治4年に海神神社と改称、国幣中社に列せられた。 本社の造営は、古く大宰府所収上県郡の貢祖数ヶ年分を以て充てられ、藩政時代には藩費によって、およそ四十年ごとに造営されたものである。 【祭礼】 毎月一日、月次祭。2月17日(古例は旧正月15日)、祈年祭。旧8月4日、前夜祭。5日、古式大祭。霜月初卯、一宮祭。 古式祭には神幸式、放生会、神楽があり、古くは鉾舞や舞楽があったが今は絶えた。 【宝物】 八幡神像二体(木造)。阿弥陀如来像一体(銅造・新羅仏)。神代矛6本(青銅広矛・弥生時代)、鏡28面(高麗鏡・胡州鏡・和鏡)。仮面8面(木造・鎌倉〜南北朝)。 これには国・県指定の文化財が多く、外に鈴、銀椀、銀匙、甲冑、棟札などがある。 【神山と社叢】 神霊の鎮まるところを伊豆山という。イヅ(稜威・厳)とは神霊を斎き祀ることの意で、千古斧を入れない社叢は県指定天然記念物の原生林、いま「野鳥の森」として指定されている。 社頭掲示板 |
海神神社 海神神社 わたつみじんじや 長崎県上県郡峰町大字木坂。旧国幣中社(現、別表神社)。豊玉姫命を主神とし、彦火火出見命・鵜草葺不合尊・宗像神・道主貴神を配祀している。 社伝によれば、神功皇后が新羅よりの帰還の途、上県郡峰町に、至り旗八流を蔵めて、新羅を鎮める験としたといい、それが現在の宗形八幡という。その後旗は、木坂山に遷し、木坂八幡宮(当社)とし、宗像社を末社にしたという。また、仁徳天皇の御宇、異国の軍艦が本州の西面の海面に来襲した折に、木坂山の山頂より奇雲烈風が起こり、軍艦は散じ沈んだとも伝えられている。承和4年(837)2月、従五位下を授けられ、貞観元年(859)正月、従五位上、同12年3月正五位下に昇叙されたことが国史に見えている。「延喜式神名帳」には「和多都美神社」と見え、名神大社に列している。また対馬国一の宮として、衆庶の崇敬を集めた。中世以降は、八幡本宮とか上津八幡宮と称され一般に尊崇されていたようである。社殿の造営は、古くは、対馬国から太宰府に納める税が充てられ、不足の分は神領の民戸の手で補われていたが、遷座の時は、特別に太宰府より御料が進められた。建長4年(1252)に社殿の修理が行なわれ、嘉暦2年(1327)再建、永和4年(1378)宗澄茂により社殿の造営がされて以来、宗氏によりたびたび修造が行なわれた。明治4年(1871)5月14日、国幣中社に列した。例祭旧8月5日。神事に浜殿放生祭がある。 神社辞典 |