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「海幸彦・幸山彦伝説」で山幸彦(彦火火出見尊)が辿り着いた海宮の古跡という。山幸彦は、ここに三年留まり、豐玉姫命を妃とした。 境内に豊玉姫の墳墓と、磯良(いそら)の墓と傳える岩場があるが、これは古墳ではない。おそらくこれは、社殿が営まれる以前の古い祭祀の場所で、磐座と思われる。 「式内社調査報告」で永留久恵は「この地が阿曇(あつみ)氏の有力な本拠であつた」とし、「『魏志・東夷傳』倭人條にいふ対馬の大官卑狗といふのは仁位の付近に居たものと推定し、この海人族の首長である卑狗(彦〉が祭つた神が、海神豊玉彦ではないかと述べたことがある。この海神の名が、俗傳のなかでは磯武良(イソタケラ〉となつてゐる。」と述べている。 明治5年の社号復旧の際、式内社大島神社と認定されたが同11年再度改称して、旧名の和多都美に復している。 三の鳥居と四の鳥居の間にある三本柱の鳥居の下には、「磯良恵比須」という、鱗状の亀裂が見られる岩が祀られている。磯良恵比須は、阿曇磯良(海神)のご神体と伝わる。 |
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名神大社 和多都美神社 御祭神 彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと) 豊玉姫命(とよたまひめのみこと) 御由緒 当社の所在地表示は、現在「下県郡」であるが、以前は「上県郡」であった。平安時代の律令細則である「延喜式」の「神名帳」の中に「対馬国上県郡和多都美神社(名神大)」とあるのは当社である。貞観元年(859年)に清和天皇から従五位上の神階を賜り、また、「三代実録」によれば、永徳元年(1381年)に、更に従一位を叙せられ、往古より島内は言うに及ばずわが国の名社大社の一つに数えられた。 縁起を辿れば、神代の昔、海神である豊玉彦尊が当地に宮殿を造り、宮を「海宮」と名づけ、この地を「夫姫」と名付けた。その宮殿の大きさは、高さ一町五反余り、広さ八町四方もあったという。そして神々しい神奈美「夫姫山」のさざ波よせるこの霊地に彦火々出見尊と豊玉姫命の御夫婦の神を奉斎したと伝えている。 豊玉彦尊には一男二女の神があり、男神は穂高見尊、二女神は豊玉姫命・玉依姫命という。ある時、彦火々出見尊は失った釣り針を探して上国より下向し、この宮に滞在すること三年、そして豊玉姫を娶り妻とした。この海幸彦・山幸彦の伝説は当地から生まれたものである。 満潮の時は、社殿の近くまで海水が満ち、その様は龍宮を連想させ、海神にまつわる玉の井伝説の遺跡跡や満珠瀬、干珠瀬、磯良恵比須の磐座などの旧跡も多く、また本殿の後方に二つの岩がある。これを夫婦岩と称し、この手前の壇が豊玉姫命の墳墓(御陵)である。 また、西手の山下に、石があり、それが豊玉彦尊の墳墓(御陵)である。このように当社は古い歴史と由緒を持ち、時の国主や藩主の崇敬も篤く、たびたびの奉幣や奉献それに広大な社領の寄進があった。現在でも対馬島民の参拝は勿論のこと全国各地からの参拝が多い。 社頭掲示板 |
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和多都美神社 和多都美神社は、浅茅湾北西岸の最 奥部に鎮座しています。この地に大海 神・豊玉彦の海宮(わたつみの宮=竜 宮)があり、祭神の山幸彦と豊玉姫は ここで出逢ったとされています。 秋の大潮の満潮時、海の女神の力が 文字通り「最高潮」に達するころ、古 式大祭が催行され、中世に起源をもつ、 女性が舞う神楽「命婦(みょうぶ)の 舞」が奉納されます。 拝殿前にならぶ5つの鳥居のうち2 つは海中にあり、満潮時は海中に、干 潮時は干潟の上に基台まで露出し、ま た秋の大潮の満潮時には拝殿近くまで 海面が上昇するなど、海神を祭るにふ さわしい雰囲気です。 対馬観光物産協会 |