敬満神社
けいまんじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】敬満神社(名神大) 遠江国 城飼郡鎮座

   【現社名】敬満神社
   【住所】静岡県島田市阪本4054番地の1
       北緯34度49分2秒,東経138度12分13秒
   【祭神】敬満神 (配祀)天照皇大神 速須佐之男尊
       (合祀)建御名方命 事代主命 軻遇突知命 御食都神 高皇産霊神

   【例祭】10月15日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】垂仁天皇26年創祀
       仁寿3年(853)11月名神『文徳天皇実録』
       貞観2年(860)正月従四位下『三代実録』
       醍醐天皇の時国幣大社・名神祭
       天正年間掛川藩主山内一豊領寄進
       明治6年3月郷社
       同44年10月神饌幣幣料供進神社指定

   【関係氏族】秦氏
   【鎮座地】古くは大井川付近にあったか

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造銅板葺
       拝殿・神符投與所・社務所・手水舎

   【境内社】水神社

大井川の南側に広がる牧の原台地を利用した牧の原大茶園の東端に鎮座する。
創建について、社伝では垂仁天皇(第11代)26年のこととするが、詳らかではない。当地一帯に居住した渡来人の秦氏がその氏神を祀ったことに始まるとする説があるが、渡来系氏族が祀る名神大社の例は他に存在せず、同地には応神天皇後裔の榛原公が入植しているため、榛原公による祭祀であったと見る方が妥当との説もある。
現在の祭神は「敬満神」(けいまんのかみ)である。明治以降、祭神を少彦名命としていたが、昭和13年に敬満神に訂正された。元々の祭神はこの一帯に勢力を持った秦氏の祖の功満王であるとする説もあるが不詳である。
、『神名帳考証』では古くは大井川付近にあったが水害により現在地に移転したとする。


敬満神社

祭 神 敬満神 少彦名命
天照皇大神・速須佐之男尊
合 祀 建御名方命・事代主命・阿遇突知命・御食都神・高皇産霊神
例祭日 十月十五日
境内社 大楠神社・水神社
御由緒
 当社は、遠く垂仁の朝26年の創祀と伝えられ(社伝)文徳の朝、仁寿3年に名神に預る神社に列せられ(文徳実録)清和の朝、貞観2年には「正四位下」を授けられ(三代実録)醍醐の朝には、国幣大社の列にあった(延喜式)ほどで、まさに古社であり名社であった。近世に至り徳川幕府からは、先規に倣って社領を寄進せられるなど、皇室を始め武門の崇敬が篤く、古代榛原郡の中心榛原郷、その主邑たる初倉の鎮護として、この地方の尊崇極めて温厚なるものがあった。降って明治維新の際、明治4年5月太政官より「官社以下定額」が布告された。それに因って郷土初倉の産土神として、明治6年郷社に列せられ、次で神選幣帛料供進神社に指定された。
尚昭和21年1月由緒上、県社たる資格のある旨神祇院から認定された。例祭日は郷内の祝日(旗日)として官公衛、学校を始め各戸休業して、敬意を表するのが通例であった。祭日には、諸社の管者としての地方長官の代理官として郡長、地方事務所長若くは村長が奉幣使となって参向し、また村の名誉職、学校長、職員生徒児童など、多人数が参列して、盛大に祭典が執行されたものである。
こんな状況は、終戦時まで続いたが、戦争終結後の、神社制度変革を経て、国家管理をはなれた神社は、一抹の淋しさを帯びつつも、全氏子の団結力に支えられ、その赤誠こもる奉仕によって古社、名社のおもかげの保存につとめつゝ、現在に至っている。

社頭掲示板



敬満神社

当社は、遠く垂仁の朝26年の創祀と伝えられ(社伝)文徳の朝、仁寿3年に名神に預る神社に列せられ(文徳実録)清和の朝、貞観2年には「正四位下」を授けられ(三代実録)醍醐の朝には、国幣大社の列にあった(延喜式)ほどで、まさに古社であり名社であった。近世に至り徳川幕府からは、先規に倣って社領を寄進せられるなど、皇室を始め武門の崇敬が篤く、古代榛原郡の中心榛原郷、その主邑たる初倉の鎮護として、この地方の尊崇極めて温厚なるものがあった。降って明治維新の際、明治4年5月太政官より「官社以下定額」が布告された。それに因って郷土初倉の産土神として、明治6年郷社に列せられ、次で神選幣帛料供進神社に指定された。

静岡県神社誌



敬満神社 名神大

敬満は音読也○祭神功満王秦氏祖神、(考証)〇谷口村に在す、例祭月日、〇式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、遠江國敬満神社一座、○惣國風土記四十八残欠云、遠江國榛原郡敬満神社、圭田六十二束三字田有余、垂仁天皇26年、所祭少彦名命也、
式社考云、金谷駅ヨリ南十六七町経テ、大井川ノ流レニ谷口村ト云処アリ、其処ニ敬満森ト云フガアリ、其中ニ小社アリ、コレナル事疑ヒナシ』又一説ニ、秋葉山ノ奥ニ京丸村アリ此ナラン、敬満モキヤウマロト唱フベシ、」又或説ニ、千頭村ニ宇也美都乃瀧卜云フガアリ、古其処ニ社アリシト云伝ヘタリ、サレバ敬満ハウヤミツナルベシ、』本居宣長云、遠江國ノ、古図ニ、泰原郡初倉大日、西島二鏡満大菩薩ノ領地ト記セリ、此処ニ敬満神社ハアルベシトイヘリ、』又神名帳古本傍注ニ、敬満神社一名事任大明神トアルハ拠ガタシと云り、
連胤按るに、まつ惚国風土記に祭神を少彦名命と載たる、誠に信用しがたし、考証の説を可とすべし、されど少彦名命も相殿にますかは志らず、さはいへ中昔の人、蕃神等の事忌嫌て附会せるも多ければ、いつれとも云がたくや、又在所を京丸村、千頭村など云るは、皆称號の似たるをもての附會也、谷口村なるを正しとすべし、又神名帳古本傍注ある本、予いまだこれを見ず、たとひ一本ありとも、こは先輩のいへる如く拠がたかりけり、
神位 名神
文徳実録、仁壽3年11月癸丑、以遠江国敬満神霊預於名神、三代実録、貞観2年正月27日戊寅、授遠江國從四位下敬満神正四位下、
社領

神社覈録



郷社 敬満神社

祭神 少彦名命
相殿 天照皇大御神 速須佐之男命
合祭 建御名方命 事代主命(諏訪神社) 軻遇突智命
   (愛宕神社) 高皇産霊命(天神社)不詳
   三狐神社
創立年代詳ならず、文徳実録に、
「仁寿3年11月、以遠江國敬満神霊、預於名神」
と見え、三代實録に、清和天皇貞観2年正月27日戊寅、從四位下より正四位下を奉授せられ給ひしよし見えたるが、延喜の制、名神大社に列せられ、國内有数の名社たり、式内社摘要に云く、
「敬満神社、金谷駅より南十六七町を経て、大井河の流下に、谷ロ村といふあり、其所に敬満の森とて、神さひたる森林あり、其中に神祠あり、是なることうたがひなし」
又神祇志料に云く「今谷ロ村敬満森にあり(遠州一統志、巡拝旧祠記、式社摘考、東海道名所図会)」と、然るに、敬満神社を以て或は京丸村、或は千頭村とするものあれど、神社覈録にいへるが如く、皆称號の似たるをもつての附曾也、谷口村なるを正しとすべきなり、東海道名所図会に拠れば、元と川中島弁財天とも称せるが如しと雖も。風土記傳には鏡満大菩薩社と見え、幕府時代には除地六石三斗を有したり、明治6年3月郷社に列し、翌7年5月、諏訪神社以下の社を合祀せり。
社殿は本殿、拝殿の二宇を備へ、境内は775坪(官有地第一種)あり、因みに記す、当社亦偽風土記に依り、祭神を少彦名命として、創立年紀を垂仁天皇26年とせるは弁明の限りにあらざるべし、尚ほ祭神に就いては、神名帳考証には「続後記承和14年の條に、遠江國の泰原郡人泰里女産二男一女、云々と見えたるに依て、按、敬満者、功満王、秦氏祖神也」といへり、未だ十分信じがだしと雖も、姑く附けて後考を俟つ。

明治神社誌料



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