飯津佐和乃神社
はづさわのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】飯津佐和乃神社 遠江国 城飼郡鎮座

   【現社名】飯津佐和乃神社
   【住所】 静岡県牧之原市波津1000-1
       北緯34度40分43秒,東経138度11分46秒
   【祭神】素盞嗚尊 (配祀)高皇産霊尊 (合祀)猿田彦神 菅原道真
   【例祭】9月15日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】由緒不詳
       元亀2年(1571)現在地に遷
       慶長9年(1604)8月黒印領一石八斗寄進
       明治維新に際して「飯津佐和乃神社」に改称
       明治6年3月「須佐男神社」と改称郷社
       同40年9月神饌幣畠料供進神社指定
       昭和24年2月「飯津佐和乃神社」と改称

   【関係氏族】
   【鎮座地】旧鎭座地を小堤山の嶺としている
        元亀2年(1571)現在地に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「牛頭天王社」と称していた
   【社殿】本殿三間社流造銅板葺
       幣殿・拝殿・手水舎・神饌所・神職控室・祭器庫・舞台

   【境内社】稻荷神社・琴平神社・秋葉神社・津島神社・大和神社

波津の町の旧街道沿に、住宅に挾まれた形で鎮座している。
応神天皇以前の創立といい。神功皇后が三韓遠征の後三刃鉾を寄進したという。無形民俗文化財の「御船神事」あり。
旧鎭座地を小堤山の嶺としている。小堤山は、現在は整備された小堤山公園になっている。
古くから神仏習合し牛頭天王社などと呼ばれてきたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され旧社号で飯津佐和乃神社に改められたが、明治6年(1873)に郷社に列した際に須佐男神社に改称されている。明治40年(1907)に神饌幣畠料供進神社に指定され昭和24年(1949)に再び飯津佐和乃神社に復している。


飯津佐和乃神社

相良町波津1000番地鎮座
祭神
素盞鳴尊
配祀 
高皇産霊尊
合祀 
船玉神社 祭神 猿田彦命
同天満宮 同  菅原道真
由諸
本社は応神朝以前の創祀と伝えられ、神功皇后三韓を征伐の後、報賽のため三刃鉾壱竿を寄進せられたという。もと飯津の入海周辺住民の祖神として、小堤山の嶺に奉斎せられた。飯津佐和乃神社と称する故は、飯津に鎮座の相良の神の意であると伝えている。延喜の制国幣の小社に列せられ、一に熊野本宮とか、法性大明神とも称せられた。
元亀2年春、武田、徳川の兵火に罹つた為、四隅神の一たる現船玉神社境内に移祀した。
徳川氏は慶長9年8月10日伊奈備前守をして黒印領一石八斗を寄せられ。江戸時代末、藩主田沼氏篤く崇敬して櫓、扁額等を寄進した。
本杜、中世以降、牛頭天王社と称したが、維新に際し旧社名に復称し、更に明治6年3月須佐男神社と改称、郷杜に列せられた。
旧、一橋家の代官由高新八郎信離(初代帝室博物館長)並に宮内少輔山岡鉄太郎崇敬して各々扁額を寄進した。
明治40年9月13日神饌幣帛料供進神社に指定せられ、昭和24年2月1日元社名に改称した。現在の社殿は氏子棟梁浅野宇吉氏の設計で室町時代の建築様式に則り、昭和10年4月より昭和11年9月迄、総額3,4500、延10,000人の人工を以て造営したものである。
合祀、船玉神社は往古からこの地に鎮座。小堤山東麓の稲荷社。西麓の左宮司社。北麓の天神社と共に本社四至の神と伝えられている。山頂本杜旧鎮座地から各々等距離にあるが昭和22年1月11日本社に合祀した。
合祀、天満宮はもと波津字小堤640番地の1鎮座。創祀の年代を詳らかにしないが、此の地古来、天神ケ谷と称して、飯津佐和乃神社四至の神あり、北方の守護神であるため京都北野天神になぞらへ菅公を祀ったが、正徳3巳年幕府寺社奉行本多弾正少弼忠晴、支那僧南源性派を招じて此の地に黄檗宗仏源由宝泉寺を創立するに当り同寺の鎮守として尊崇した、宝泉寺初代鉄梅道香は後水尾法皇と其に隠元隆埼の法孫である。
本多忠晴、宇治万福寺の創建に功があつた為、法皇の勅額を賜つて天満宮に納めたと伝えられ、嘉宮(閑院宮美仁親王王女。宣子女王、有栖川宮韶仁親王に嫁す。先に祥宮、後に嘉宮と称す大破した為に明治の神社調べに洩れたけれども明治16年3月再興の許可を得石坂周造、山岡鉄舟等相良町内参百有余名の崇敬者が協力して再建した。昭和27年神社制度改革にあって本社に合祀した。
祭祀
例祭 9月15日
古来3月10日、6月15日、11月中の亥の日を祭日としたが、明治6年太陽暦施行せられるに当つて、例祭を9月15日に改めた。
古例祭 8月2日
旧、6月15日であつたが、昭和21年神社制度改革にあたつて8月2日に改めた。

由緒書



飯津佐和乃神社

相良町指定(無形民俗文化財)
飯津佐和乃神社の御船神事
当社卸例祭(9月15日)に行われる神輿渡御のお先供をする特殊神事です。
神事に使われる船は、江戸時代の千石船、干五百石船おのおの一艦の模型です。
縮尺十分の一で(長さ2m)精巧に造られています。
船若と呼ばれる青年たち33名が、昔からの船歌に合わせて船を操つり、海の上を進むようにして神輿のお先供をします。
昭和41年9月20日指定
相良町教青委員会

社頭掲示板




飯津佐和乃神社

このお宮には素戔嗚尊そして菅原道真公など四神が祀られています。もと小堤山頂 にあったものを元亀2年(1571)こゝに 遷しました。東側のお稲荷様は徳川家康や田沼意次により祀られたものです。

社頭掲示板



飯津佐和乃神社

飯津は伊此都と訓べし、佐知乃は假字也、祭神高皇産霊尊(風土記)○総國風土記四十八残欠云、遠江國榛原郡飯津澤神社、圭田二十五束、所祭高皇産霊尊也、欽明之御願也、
式社考云、披津村ニアル牛頭天王也(参考同)ト云フ未詳、」一説云、大井川ノ上金谷駅ヨリ八九里奥上長尾村ニ有ツルガ、社破レタエテ今ハ大木許アリ、其所ニ八幡アリ、先年神鏡ヲ土中ヨリ堀出シタリ、径八寸許、銘曰、遠江国榛原郡五社之内飯津澤神社、圭田二十五束、所祭高皇産霊尊也、欽明御願也、日本風土記出所如斯、ト鋳付テ人ノ像モアリ、此鏡今八幡宮ニ納アリ、風土記ノ文今存スルモノト符合セリ、

神社覈録



郷社 須佐男神社

祭神 素戔鳴尊
旧と牛頭天王社と称せしが、明治維新今の號に改む、正徳元年旧社家退転の為め、社記紛乱す、依りて今其の創立年代及沿革詳ならずと雖も、延喜式内社飯津佐和乃神社なりといふ、
風土記伝に云く、「或曰、式内飯津佐和乃神社也、」
式内社摘考に云く、飯津佐和乃神社、波津村にある牛頭天王なりといへども、いまだ未詳、」
神祇志料に云く、「飯津佐和乃神社、今波津村に在り、牛頭天王と云ふ(巡拝旧祠記、式社摘考、神名帳打聞)」
特選神名牒に云く、「飯津佐和乃神社、所在波津村西町、今按云々、遠江風土記伝に。相良郷波津村牛頭天王社と云へる、飯津をハツと訓たるにて、いと由縁あれぱ姑く之に從へり」
明治6年3月郷社に列す。
社殿は本殿、拝殿の二宇を備へ、境内は1664坪(官有地第一種)あり。

明治神社誌料



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