片岡神社
かたおかじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】片岡神社 遠江国 榛原郡鎮座

   【現社名】片岡神社
   【住所】静岡県榛原郡吉田町住吉2212-1
       北緯34度45分33秒,東経138度15分17秒
   【祭神】底筒之男命 中筒之男命 表筒之男命 息長帶毘売命
   【例祭】8月2日 夏季大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】孝霊天皇6年3月大和国片岡神社を勧請
       仁徳天皇代に摂津国住吉神社を勧請
       正保4年(1647)造営
       明治6年3月郷社
       同41年1月神饌幣畠料供進神社指定

   【関係氏族】三輪氏族
   【鎮座地】もと、現在地より1.5Kmほど北の、国道150号樋泉橋付近にあり
        大井川の洪水で流されて現在地へ

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「住吉大明神」と称していた
   【公式HP】 片岡神社
   【社殿】本殿流造瓦葺
       幣殿・拝殿・社務所・宝庫・手水舎・土藏・随神門

   【境内社】稲荷神社(稲荷神社・津島神社・厳島神社合殿)・舟玉神社・星の宮神社・西宮神社

住吉小学校東に鎮座する。
中古以降「住吉大明神」と称してきた。
この地に移住した三輪氏族が大和で祀つていた片岡神を勧請し、その関係から大和国の片岡神社の神戸がこの地域に設けられたと考えられている。
もと、現在地より1.5Kmほど北の、国道150号樋泉橋付近にあり、大井川の洪水で流されて御神体が今の所に流れ着いたといわれている。


片 岡 神 社

鎮座地 静岡県榛原郡吉田町住吉2212−1
御祭神 底筒男命(ソコツツノヲノミコト)・中筒男命(ナカツツノヲノミコト)・表筒男命(ウハツツノヲノミコト)
息長帯毘売命(オキナガタラシヒメノミコト)のいわゆる住吉の四柱大神です。
由緒 当社は、もと遠江国初倉庄にあって住吉大明神を奉斎し、片岡社とも称していました。明治維新後に片岡神社を神社名としました。
延喜式神名帳の片岡神社が当社であると伝えます。正保4年(1647)に建て替えられた記録(棟札の写し)が伝わる古社です。この御社殿は大正2年(1913)に当時の帝室技芸員の伊藤平左衛門氏の設計により、それまでの萱葺きから瓦葺に改築されました。戦後に幣殿をつけ、平成5年皇太子殿下御成婚を奉祝して大屋根の葺き替えと幣殿の改修、天水桶の設置等を行って現在に至っています。
御神徳 海上安全、国家鎮護、家内安全、産業振興、また学問の神そして厄除け攘災の神として数々の御神徳を輝かされ、広く人々に崇敬されています。
社伝 当社は、もと、現在地より1.5キロほど北の、国道150号樋泉橋付近にあり、大井川の洪水で流されて御神体が今の所に流れ着いたといわれています。いまでも樋泉橋の付近には元森とか舞台といった地名が残っていて、宮所の伝説を裏付けるかのようです。下の古地図でもうかがえるように、住吉のあたりから今の大井川町小杉、藤守の間は奔放な大井川の河口地域の中にあったようです。川尻や高島、大井川町側の吉永や宗高といった集落は、中洲(島)にあったようです。
宮 司 松浦清夫
:0548−32−0333・Facimile:32−0376 
片 岡 神 社(通称住吉神社)
社  名  の  由  来
当社は、近郷では「住吉神社」と呼ばれております。この呼び名は江戸時代からあったようで、たとえば正保4年(1647)の棟札の写しには、「住吉社」と書かれています。それから70年ばかりあとの棟札には「片岡ノ社」とあります。また、明和8年(1771)の境内社西宮神社棟札には「片岡神社住吉大明神」「下吉田村住吉 片岡神社神主松浦清茂」などとあります。昔から二つの名称があったようにも受け取れます.明治維新の後「片岡神社」を公式神社名としました。昭和30年(1955)に氏子区域が住吉区となったのを機に神社の名前も住吉神社にしようということになって神社本庁へ社名変更の申請をしましたが、「片岡神社」という由緒ある社名を軽々に変更することは適切ではない、但し通称で住吉神社と称することは構わないという御指導を得て氏子も考え直して正式には片岡神社のままとし、通称住吉神社と称することとして現在に至っております。
社  殿  等  配  置  
  弓道場 西宮神社
十二祭神
琴平神社 星宮神社 船玉神社 稲荷神社
厳島神社
津島神社
土 蔵 本  殿
拝  殿
社務所 宝 庫
由緒板
手水舎
随身門
大鳥居
それでは御本殿から境内社へとご案内致します。
境 内 の 御 案 内
御本殿・拝殿
はじめに申し上げましたとおり、大正2年に改築されましたが、それ以前にもたびたび建て替えが行われた記録がございます。一番古い年次は正保4年(1647)です。そのときは代官源忠次(伊那備前守忠次のこと)が病気平癒を感謝し、一族や村民の協力を得て再建したという意味のことが述べられております。また明治中期頃のものと思われる写真が残っておりますが、それをみると茅葺の権現造で今とあまり変わらない大きな御社殿だったことがわかります。
御本殿 拝 殿
正保4年の棟札に当時の神社の様子をほめ称えて記してありますが、それは次のようなものです。
「前は滄海満満、釣り舟をうかべ、後方は松風颯颯、浄社に響く。これ繁華の勝地なり」
お祝いの文句ですから多少大げさに書くものでしょうが、それにしても白砂青松の大変美しい景色だったことがうかがえます。
大鳥居
大鳥居は、やはり大正2年当時の吉田村在郷軍人会の寄進による木の鳥居でしたが、腐蝕が著しく、昭和26年に住吉区長の福世駒吉氏が寄進され、コンクリートに改められました。高さ15尺の明神鳥居で、掲額の「住吉神社」の文字は、大阪の住吉大社宮司(当時)の高松四郎様に揮毫をお願いしました。
随身門 御祭神:豊磐間戸神・櫛磐間戸神
この地方では、このような門を有する神社建築はめずらしいといわれております。大正2年以前では、寛政3年(1791)に再建されました。もちろん当時は茅葺だったようです。このとき新調したと思われる横額が今も掛かっております。これには「片岡社」となっています。寛政2年9月末日近藤官左衛門と記されておりました。門は大正2年に改築されて瓦葺きとなり、平成5年には皇太子殿下御成婚記念事業で屋根を葺き替え、御神像を本格漆塗りに塗り直しました。
境内の御案内(2)
手水舎・由緒板
明治41年(1908)にこの付近に井戸をうがち、水を西隣の住吉小学校や近所の民家にも引いて「理想的な水舎」といわれたそうです。大正12年(1923)の関東大震災のあと湧水がとまってからは、古くからの井戸を使用していました。昭和33年(1958)手水舎の改築と新井戸掘削を計画し、2ヶ月間探索の末にようやく小学校よりの深さ70メートルに水脈を見つけ、これに勢いを得てたちまち完成させたのが、この銅葺の手水舎です。井戸の掘削費用は学区、町、神社が出し合ったそうです。隣の由緒板は、昭和61年に天皇陛下御在位60年を記念して建てたものです。折りしも静岡県が実施した「ふるさとお宮の森・お寺の森百選」に当神社の森が選ばれたので、その掲示板も併せて掲げてあります。手前は昭和7年に氏子の方が南洋パラオ諸島ヘレン環礁で手に入れて奉納されたシャコ貝です。
稲荷神社・津島神社・厳島神社合殿
御祭神:豊宇氣毘売神(稲荷)・建速素盞嗚命(津島)・市杵島毘売命(厳島)
この3社は、もとは大鳥居の西側に東から稲荷、津島、厳島の各神社が並んでありましたが、昭和38年に今の所へ移築し合殿としたものです。中央に稲荷神社。元禄5年(1692)に山城国の本宮から勧請し、嘉永4年(1851)にあらためて御分霊を戴きました。向かって右が津島神社です。文政4年(1821)に尾張の津島神社から勧請、向かって左に厳島神社を祀ります。元禄11年(1698)に安芸の宮島から勧請したと伝えます。祭日は4月3日です。
船玉神社 御祭神:猿田彦命・天鈿女命・八重事代主命
船玉神社は漁業、航海安全の守護神で、昔から漁業や海運業の盛んな住吉では、とくに人々に信仰されました。創立は文禄元年(1592)と伝えます。この社殿は平成10年に漁業者のみなさんの寄進により改築されました。ここには船玉石の伝説があります。昔、沖合いから白波を立てて岸に寄せて来たものがあったので漁師が近寄ってみると緑色をした石だった。それを家に持ち帰って神棚にかざって置いたところが、夜中になるとぴかぴか光る。そこでただ事ではないと氏神様の社へ奉納した。神主は社殿の横に小祠をこしらえて安置しておいたが、それからこの浜は豊漁のご利益が続いた。漁師たちはありがたがって立派な祠を建ててお祭するようになった。それが船玉神社である、というものです。祭日は4月3日です。
境内の御案内(3)
星宮神社 御祭神:天香香背男命(星大神)
祭神は、天の運行を支配され、万民福祉を恵む神です。星宮大明神と崇められ、明応4年(1495)創建の言い伝えのある、当社で最も古い神社です。古来「奥の院」とも称され、当社では特別大切におまつりしています。ここにはなぜか虚空蔵菩薩さまもおまつりしております。当社の秋の例祭は、この神社のお祭です。祭日は、10月第2日曜日です。境内はこの夜、カラオケ大会などの余興で大賑わいです。虚空蔵菩薩さまが祀られるようになったのは次のような事情があったのだと云い伝えています。
 もともとこの虚空蔵さまは今の片岡地内のある神社に祀られていました。ところが虚空蔵さまは川魚、とくにうなぎの守護神といわれるので、人々はうなぎをとって食べることが出来ませんでした。そこで困った村人は住吉に目をつけて、住吉は川魚が食べられなくても、海の魚があるからよいだろうというわけで、虚空蔵さまを住吉へ移してよこしたというのです。
西宮神社 御祭神:西宮大神・大己貴神
西宮神社も合殿です。中央が西宮神社、向かって右に「十二祭神」、向かって左に「琴平神社」が祀られております。西宮神社は、兵庫県西宮から勧請したものと思われます。商売繁盛の神さまとして人々に仰がれております。明治のはじめ頃までは七福神もまつられていた形跡がありますが、今はありません。
祭日は、11月19日です。正月10日に商売繁盛を祈願して(十日えびす)、11月には満願のお礼参りとしてお祭りします。「宵えびす」ともいいます。
十二祭神
合殿向かって右におまつりするのが、十二祭神と称え奉る神々です。神明宮、春日宮、八幡宮、西ノ宮、稲荷宮、伊雑宮、弁財天宮、天満宮、山神宮、大黒宮、船玉宮、大海神宮の十二社といわれておりますが、勧請の経緯はわかりません。明和8年(1771)11月の棟札に「奉遷宮十二神末社・・・」と記されております。夏の御例祭の渡御行列の中に「十二ノ命」という役柄の供奉がありますが、これらの神社の御幣を奉じてお供をするものだといわれています。
琴平神社
航海安全の守護神です。正保年間にはまつられていたようです。寛延4年(1751)にあらためて讃岐の金刀毘羅神社から勧請したと伝えられております。

公式HP




片岡神社

式内片岡神社
(通称住吉神社)
前ハ滄海漫漫釣船ヲウカベ後ハ松風颯颯浄社二響ク
是繁華ノ勝地ナリ(正保4年御社殿再建棟札より)
片岡神社(通称住吉神社)由緒
鎮座地 静岡県榛原郡吉田町住吉2212番地の1
御祭神
底筒男命(そこつつのおのみこと)
中筒男命(なかつつのおのみこと)
表筒男命(うわつつのおのみこと)
息長帯毘比売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)
住吉四柱大神(すみよしのよはしらのおおかみ)と称奉る。古来、航海、漁業の守り神、また祓の神、厄除けの神、交通安全、五穀豊稔、商売繁昌、家内安全、文学・学問の守り神等の数々の御神徳によって広く崇敬されている。
御社殿 帝室技芸員伊藤平左衛門氏の設計により、明治45年6月に起工し大正2年2月に竣工した。随身門を有する優雅な建築である。 皇太子御成婚を記念して平成6年1月に屋根、向拝及び幣殿の修復を行い、同年5月完了した。
御末社 星宮神社、船玉神社、稲荷神社、津島神社、厳島神杜、西宮神社、琴平神杜、
十二祭神、随身併せて二十三柱の神を祀る。

社頭掲示板



片岡神社

名称 式内 片岡神社(通称 住吉神社)
所在 榛原郡吉田町住吉2212番地の1
神域 往古は住吉小学校から千日堂 あたりに至る迄社領地であったが時代と共に縮小現在に至った。現在総面積4349平方米
創建 明確な資料は無いが延喜式に よる式内の冠称から推考し平安朝醍醐帝の御代既に 存在し以来壱千数百年の永い歴史を重ね大正2年本社殿に改築、今日に至った由緒ある神社である。
祭神 底筒男の命・中筒男の命・表筒男の命 住吉の三柱神
息長帶毘賣命(神功皇后)
右四柱を祭祀し摂津の国(大阪)住吉大社の分霊を勧請、海神並に諸願成就の守護神として往昔からこの地域の多くの人達 から崇敬されている。
祭事 主なる例祭
 1月1日   元旦祭
 2月11日  祈年祭
 4月3日   舟玉神社祭稲荷神社祭
 8月1・2日 夏季大祭宵祭本祭
 10月9・10日 秋季例祭星の宮祭
 11月23日 勤労感謝祭
 12月31日 大祓
右祭事の内、特に夏季大祭の渡御神事は華麗な大神典に随う祭員之に続く十万石の格式と称される古式豊かな道中奴、神徒士、稚児の大名行列、更に華美と意気を競う若者達の練る小神輿と数台の山車、老いも若きも巷を挙げての祭典として絢爛豪華、他に例を見ない。

社頭掲示板



片岡神社

当社は、正保4年に再建された記録がある古社で住吉大明神と称され、明治維新後に片岡神社を正式社名とします。延喜式神名帳の遠江國片岡神社が当社であると伝えます。通称を住吉神社といいます。 現社殿は大正2年に改築。帝室技芸員伊藤平左衛門氏の設計によるものです。

静岡県神社庁



神社概要

名称 片岡神社(通称 住吉神社)
所在 静岡県榛原郡吉田町住吉2212番地ノ1
由来 当社は、遠江国榛原郷初倉ノ庄にあつて住吉大明神とも称せられ、明治維新後に片岡神社を正式名称としました。
延喜式神名帳に記す古社で、社領は古くは広大でしたが、明治政府による上地、戦後の農地政策等のため減少し、現在は5913uです。
社殿は大正2年に帝室技芸員藤平左衛門氏の設計により再建され、平成5年に大屋根を葺き替えました。

社頭掲示板



郷社 片岡神社

祭神  底筒男命 中筒男命
 表筒男命 息長帯比売命
是地天正以来下吉田村と称し、明治3年更に吉田村と改定せるも、元は片岡村と称せり、是に依り当社も旧と片岡神社と称せしが、後ち住吉神社と改称せりと、当社の由緒詳ならずと雖も、延喜式所載の片岡神社を当社なりとせぱ、其の創立及沿革は、極めて悠久なりとせざるべからず、当社が式の片岡神社なりや杏やに就きては、遠江国風土記傳に、「住吉大明神社、云々、郷人曰、式内片岡神社也」と見え、神祇志料は『今片岡郷下吉田村にあり」と見え、時選神名牒は所在下吉田村とせるが、只式内社摘考は「片岡神社、谷ロ村にある住吉なり、云々、未詳」と記せり、然れども学者是を取らず、当社御神体は御石にやと拝察せらるといふ、元と除地五石を有し、近郷稀なる大社なり、明治6年3月郷社に列せらる。
社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他社務所、参籠処、氏子詰所、宝蔵等を呉備し、境内な1050坪(官有地第一種)老松亭々として翠色滴るが如し、因みに記す、当社明細帳に、祭神を四柱とせるは、恐らくは偽風土記に拠りしものにして、風土記に云ふとて、暗に当社を以て孝霊天皇6年3月の創建とせるは、牽強の縁を免れさるべし

明治神社誌料



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