|
承保元年(1074)9月9日八幡太郎源義家朝臣の願いにより、横地城城主横地太郎家永の家臣二俣弾正近永が奉行して南都(奈良)春日大明神をこの地藤谷山に勧請する。 当社は菊川市上平川春日に鎮座する春日神社の元地であるとする。 |
|
藤谷神社 鎮座地 菊川市東横地122 神社等級 七等級 護祭神 天児屋根命(あまのこやねのみこと) 天児屋根命とは、藤原氏の護祭神で一説には藤原氏の始祖とも伝えられる。 古事記や日本書記の中に出てくる『天の岩戸』神話がある。 高天原で、神々の主、天照大神が、弟神、素さのおの尊の度重なる乱暴を怒り悲しみ、天の岩戸の中に隠れてしまった。そのため高天原は暗黒の世界になってしまった。この時、天児屋根命が、岩戸の前に榊を立て、そこで祝詞を奏上した。そして他の神々が、焚き火をし、音曲神楽でにぎやかにはやし立てた。天照大神は「何事が起きたのだろう」と、岩戸を少し開けてのぞいた。そこを、すかさず大力男命岩戸を押し開けて大神を引き出した。そのため高天原は再び明るさを取り戻した。 という神話である。 天児屋根命は、この岩戸事件解決の企画立案かつ上演者でもあったのである。 相殿神 熊野神社(祭神 伊弉冉尊=いざなぎのみこと) 三島神社(祭神 大山祇命=おおやまつみのみこと) 例祭日 10月17日に近い土曜日 他恒例祭年6回 由緒 人皇第52代白河天皇の御代承保元年(1074)9月9日八幡太郎源義家朝臣の願いにより、横地城城主横地太郎家永の家臣二俣弾正近永が奉行して南都(奈良)春日大明神をこの地藤谷山に勧請する。 その後、応徳元年(1084)故ありて藤谷大明神と改称されたと伝う。 慶長6年(1601)4月2日横須賀城主大須賀出羽守が社領五石を寄進し、慶安元年(1648)7月17日徳川家光が社領高五石の朱印状を寄せる。 明治元年(1864)藤谷神社と改められ、明治4年4月2日郷社に列せられる。 以上は「静岡県小笠支部神社誌」ならびに「横地村誌」から抜粋 社頭掲示板 |
|
郷社 藤谷神社 祭神 天児屋根命 相殿 熊野神社 祭神 伊弊冉尊 三島神社 祭神 大山祇命 合祭 菅原道真 (天神社} 建御各方命 (諏訪神社) 誉田別命 (八幡神社) 彌都波能売命 (水神社) 大己貴命 (金刀比羅神社) 少彦名命 (左口神社》 埴夜須毘古・毘売命(二柱) (地荒神社) 不詳 {高嶺神社) 当社々伝に云く、往昔、八幡太郎義家朝臣の祈願に依り、当国城主横地太郎家長家臣、二俣弾正近永奉行し、承保元年9月9日、南郁春日大明神を、藤谷山に勤請す、後ち応徳元年藤谷大明神と改称云々、但し、遠江國風土記傅には「神主二俣氏、中興社記曰、白河院御宇、勧請奈良野春日、横地太郎家長之時也」と見えたり、慶長6年9月再建の棟札現存す、然るに安政元年11月震災の為め大破し、同6年造営す、蓋し現今の社殿即ち是なり、元と朱印五石を有し、近郷著名の神社たり、明治元年、大明神号を改めて、藤谷神社と称し、同4年郷社に列す。 社殿は本殿、拝殿等を具有し、境内688坪(官有地第一種)あり、社域は古杉巨椎、数百株鬱然として茂り、顧る古社の趣を存す。 因みに記す、近古当社を以て、式内社奈良神社に充つるもの多し、 遠江国式内社摘考に云く、「掛川の東南三里計奈良野村にあり、藤屋大明神とて、森の中に祠あり、云々」 神名帳考証に云く「国人栗田土麻呂云、奈良野村と云ふにあり、隣村に平川村と云ふあり、氏神二社あり、ともに春日明神と云ふ、平川村の平の字は奈良とも訓なれば合せ考べし」 神祇志料に云く「今掛川駅東南奈良野村にあり、藤谷大明神と云、(式社摘考、神名考土代、巡拝旧祠記) 但し遠江国風土記伝には「奈良野、此地奈良神社之旧跡也、郷人曰、白河院御宇、遷宮於横地村、号藤谷大明神」といひて「当社合祀社天神社を、或曰奈良神社」と記せり。 明治神社誌料 |